アイキャンフライ。それは空想上の話。
一番古い空想は、うさぎのぬいぐるみに乗って飛び回ること。
生後八か月頃の話である。この時期から記憶や感情がはっきりしている。みかんが酸っぱいとか、祖父のヒゲが痛いから嫌だとか。だから、自分より一回り大きいうさぎの、プラスチックの目がいやにリアルだったのを覚えている。
私はうさぎの目から逃れるように、その背によじ登った。 綿が空気を吐き出し、体を受け止めてくれる。いつもと違う視界。なんだかとても嬉しくなった。
そして、私の空想が始まった。頭の中で楽しいことで溢れ始める。
うさぎが私を乗せて走り出す。部屋をぐるぐると駆け回る。壁伝いに高度が上がっていき、そのまま空を飛んだ。大人たちが私たちを捕まえようと慌てふためく。私は面白くなって、声にならない叫び声をあげた。
この叫び声は本当に発していて、思い切りのけぞったせいで頭を打ち付けた。赤ん坊が痛みに叶うはずもない。初めての空想は痛みに終わった。
もちろん、現実と空想の区別がつくようになってからはこんな失敗はしていない。
思い返せば、赤ん坊の頃は単純な空想が多かったように思う。おそらく絵本の内容をなんとなく覚えていて、脳がなぞっていたのかもしれない。
小学生になってからは本を読みながら空想することが増えた。中途半端に読んで、その続きを考える。ある程度楽しんだら、また本に戻って自分の空想と違うことを楽しむ。挿絵があると更に捗った。なので、漫画に触れてから空想が加速したのは言うまでもないだろう。
私にとって本や漫画は言葉を教えてくれる先生であり、空想をブーストさせるカンフル剤でもあった。
頭の中は空想で大渋滞を起こすようになり、たまらず筆を取った。ただし、文章ではなく、絵の筆だった。何枚描いても空想は枯渇知らず。絵で食べていきたいと思い、ずっと描いていた。寝るのさえ惜しいほど打ち込んだ。しかし、現実は残酷である。家庭の事情で続けるのが困難になってしまったのだ。
情熱を奪われて、私は大いにやさぐれた。腐らず生きれなかったのだ。無駄なことより、楽しいことを選んだ。
気付けばお酒に逃げて、飲み歩きが趣味の人間になっていた。何もかも、忘れたかった。
――自分の人生なのに、なぜかうまくいかない。
情熱を注いでも、汚される。邪魔される。
懸命に生きた日々をいい思い出にして、現実を揺蕩うしかない――
私は空想の代わりに、ブログに自分の気持ちを吐露するようになった。
これも最初は気軽にやっていたのに、フォロワーが増えると葛藤が生まれた。コメントが気になってうまく書けない。画面に文章を打ち込んで、送信するまでに何度も指が止まる。誰かに読まれる前から、なぜか傷ついていた。それでも送信した夜は、なぜか少しだけ眠れた。
書くのが楽しくなってから、情熱の種を見つけた。
あの時、大渋滞を起こしていた空想を文章にしたらいいんじゃないか。もう風化してしまっているけど、なんとかかき集めて物語にしたい。そう思った。
また汚されるし、邪魔されるかもしれない。家族、知人友人、ネットの中の知らない人。誰かしらは敵意のある目を向けるだろう。うさぎのぬいぐるみと同じ目。偽物の癖にこちらの中身を確かめようとする、リアルな目。
空想癖が悪く作用してしまい、物語を紡ぐ勇気がでないまま時間だけが過ぎた。
忘れもしない2020年。コロナがリアルを殺した。
真っ白になったスケジュール帳。
飲食店の灯りは消え、人と会わなくなった。
近い未来、どうなるかわからなかった、あの頃。
いつリアルが生き返るかわからなかった、あの頃。
書き始めるなら今だと思った。
同時に、書き始めなければ傷つくこともないとも思っていた。
何度も、何度も、悩んだ。
そして、おそるおそる、物語を書くための筆を取った。
私が生きるために。
だから、たぶん、死ぬまで書くと思う。
もう情熱を捨てるなんて真似はしたくない。懸命に生きたい。
生まれ持った空想癖を殺さないために、リアルと向き合う。
そう、今なら机上でアイキャンフライ。
2025.12.27 雨森れに
※この記事はライターズルームによるリレーエッセイです。
