アレクサンドル・ソルジェニーツィン(INFJ/提唱者)

基本情報

wikipedia:
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3

MBTI

https://www.personality-database.com/profile/15082/aleksandr-solzhenitsyn-writers-literature-modern-mbti-personality-type

※診断結果はリンク先の結果を参考にしているだけで専門的な知見などではありません。あくまで作家と作品を考えるきっかけとして利用しています。

興味関心の方向(Favorite world)
E – 外向型(Extravertion)
I – 内向型(Introvertion)100%

ものの見方(Information)
S – 感覚型(Sensation)
N – 直観型(Intuition)100%

判断の仕方(Decisions)
T – 思考型(Thinking)
F – 感情型(Feeling)98%

外界への接し方(Structure)
J – 判断型(Judging)95%
P – 知覚型(Perceiving)

提唱者

言葉

演説引用元『世界を動かした21の演説――あなたにとって「正しいこと」とは何か』

みなさんの多くはすでに気づき、そうでない人もこれからの人生でいずれ気がつくと思いますが、真実は全力を注いで追求しなければ私たちの手をすり抜けてしまいます。そして真実を逃したときも、知っているという幻想が残り、多くの誤解が生まれるのです。そのうえ、心地よい真実などめったにありません。ほとんどと言っていいほど、真実は厳しいものなのです。私が今日お話しすることにも、少し厳しいところがあります。しかしぜひわかっていただきたいのは、それは敵ではなく、友からの言葉だということです。

西洋社会は、法律の条文にもとづいて、自らの目的にもっとも適した組織を作ってきたと言えるでしょう。人権と正義の範囲は法律体系によって定められています。そしてその範囲は非常に広いものです。西洋の人は法律を使い、解釈し、操作する相当の技術を身につけました。ただし、法律が複雑すぎて普通の人が専門家の助けなしに理解するのが難しい傾向がありますが。どんな争いも法律の条文に従って解決され、これが最高の解決法だと考えられています。ある人が法律的に見て正しいなら、それ以上何も要求されません。それでもまだその人は完全に正しいとは言えないかもしれないと指摘して、自己抑制や法律上の権利を放棄するよう呼びかけたり、犠牲や無私のリスクを求めたりする人はだれもいません。そんなことを要求するのは愚かなことだと思われるでしょう。自発的な自己抑制を目にすることはほとんどありません。誰もがそういう法律の枠組みのぎりぎりのところで動いているのです。新しい種類のエネルギーの発明が使われるのを防ぐために石油会社がそれを買い取っても、法的には非はありません。食品メーカーが日持ちをよくするために製品に毒物を入れても法的に非はありません。消費者には買わない自由があるのですから。
 私は共産党体制の下でずっと生きてきましたから、客観的な法的基準が一切ない社会がどんなにひどいものかを皆さんにお話しすることができます。しかし、法的基準以外の基準が一切ない社会も、人間が住むのに値する社会ではありません。法律の条文だけを拠りどころにして、それ以上の水準に達しようとしない社会は、人間の高い水準の可能性をほとんど生かしていません。法律の条文は、社会に役立つ影響を及ぼすには冷たく、形式的すぎます。生活全般が法的な関係で織りあげられていれば、必ず、人間のもっとも気高い衝動をまひさせる道徳的な凡庸さの空気に包まれます。
 そして、法的な仕組みだけに頼っていては、どう考えても脅威に満ちた今世紀の試練に耐えることができないでしょう。

検閲のない西側で、その時に流行している考え方やアイディアとそうでないものが慎重に選別されています。何も禁止されているわけではありませんが。流行に沿っていないものが雑誌や書籍で日の目を見たり、大学で話題にのぼったりすることはほとんどないでしょう。法律的には皆さんの国の研究者は自由ですが、その時々の流行に縛られているのです。東側のようなあからさまな暴力はありません。しかし流行に支配された選別が働き、大衆の求めるものに応える必要もあるため、主体的な姿勢の人々が社会に貢献できずにいます。群れを作り、発展の可能性を閉ざしてしまう危険な傾向があります。

私が西側のシステムを批判するのは、それに代わるものとして社会主義を提案するためだと疑わないでいただきたいと思います。社会主義が代替システムとして採用され実行された国を経験した者として、私が社会主義を擁護することは決してありません。高名なソ連の数学者で、ソビエト科学アカデミー会員のシャファレヴィッチは、『社会主義』というタイトルの優れた本を著しました。社会主義を深く分析したこの書は、あらゆる種類の社会主義は人間の精神を完全に破壊し、人類をしに追いやるということを明らかにしています。二年近く前にフランスで出版されましたが、反論する人は現れていません。まもなくアメリカでも英語で出版されるでしょう。

現在の西側社会を母国のモデルとして提案するかと聞かれれば、率直に言って「いいえ」と答えなければならないでしょう。今の状態のみなさんの社会を、私の祖国の変身の理想像として提案することができません。祖国は非常な苦しみを経て、強烈な精神的発達を成し遂げたため、現在の精神的に疲弊した状態の西側のシステムは魅力的に見えないのです。先ほど挙げたみなさんの生活の特徴を一つとっても、非常に悲しいことです。

民主主義の草創期においては、米国が誕生したときの民主主義がそうだったように、すべての個人の人権は、人間が神の創造物であるからこそ与えられていました。つまり、自由は、個人がつねに宗教的な責任を果たすことを前提として、条件付きで個人に与えられていたのです。ここにそれまでの一〇〇〇年の遺産が受け継がれていました。二〇〇年前、いいえ、わずか五〇年前の米国でも、個人が単に本能やきまぐれの欲求を満たすために際限のない自由を与えられ得ると考えることは不可能でした。しかしその後、西洋全体でそういう制限がすべて捨て去られました。慈悲と犠牲の精神に富んだキリスト教の世紀の道徳的遺産から完全に解放されたのです。国家システムは次第に、そして完全に物質至上主義的になっていきました。西洋は人権を忠実に、ときには過剰なまでに行使するようになりましたが、神と社会に対する人間の責任感はますます薄れていきました。この数十年で西洋式の方法と考え方の法律偏重的で利己的な様相は最終段階に達し、世界は殺伐とした精神の危機に陥り、政治は行き詰りました。宇宙の征服を含めた技術の進歩が賛美されていますが、直前の一九世紀でも想像すらできなかった二〇世紀の道徳的貧困を埋め合わせすることはできません。

人間中心主義が発達の段階でますます物質至上主義になるにしたがって、最初に社会主義、次に共産主義による思惑と操作の対象になりやすくなりました。カール・マルクスが一八四四年に「共産主義は人間主義を帰化学させたものである」と言うことができたのもそのためです。
 彼がこう言ったのもあながち的外れとは言えません。精神性を失った人間中心主義とあらゆる種類の社会主義の土台には、たしかに同じ礎石が使われていることがわかるのです。たとえば際限のない物質至上主義。宗教と宗教的な責任からの解放。これは共産主義体制の下で反宗教独裁の段階に到達します。一見科学的なアプローチによる社会構造への関心の集中です。これが典型的に表れたのが一八世紀の啓蒙主義とマルクス主義です。あらいる共産主義の無意味な誓約が、大文字で書かれた人間とその地上の幸福についてであるのは、偶然ではありません。一見すると、不愉快な類似のようです。今日の西側と今日の東側の考え方と生活様式に共通な特徴があるとは。しかし、物質至上主義的な発達の論理とは、そういうものなのです。

もうかなり前から始まっている厄災があります。精神性を奪われ宗教心を失った人間中心主義的な思想がもたらす厄災のことです。
 そういう思想にとって、地上にあるものすべてを判断し評価する試金石は人間です。プライドや利己心、ねたみ、虚栄心、その他もろもろの欠点から決して逃れられない不完全な人間。私たちは旅を始めたころに気づかなかった過ちの結末を、今、経験しているのです。ルネサンスから今日に至るあいだに、私たちの経験は豊かになりましたが、かつて激情や無責任さを抑制していた「至高のまったき存在」という概念を失ってしまいました。私たちは政治改革と社会改革に多くを望みすぎてきました。その結果私たちはもっとも価値のある財産を失ったことに気づくのです。それは精神生活です。東側ではそれは支配政党の所業と策謀によって破壊されています。西側では商業的な利益に窒息させられています。これがほんとうの危機です。世界が引き裂かれていることよりも、世界の主要な部分が同じ病に犯されていることの方が恐ろしいのです。
 人間中心主義が「人は幸せになるために生まれた」と宣言したのが正しいとすれば、人は死ぬためだけに生まれてくるのではないことになるでしょう。体は死ぬのが定めですから、この世での務めがもっとも精神的なものであるべきなのは明らかです。何にも縛られずに日々の生活を楽しむことではないはずです。物質的なものを手に入れ、最大限に楽しむのにもっとも良い方法を探すことではないはずです。人生の旅が道徳的な成長の経験になるように、人生を始めたときよりよい人間になって人生を終えられるように、永遠の義務をひたむきに果たすことでなければなりません。広範にわたる人間の価値観の一覧表を見直す必要があります。今日、いかに誤りが多いことでしょう。会社の社長や大統領の業績の評価を、どれくらいお金を稼いだとか、ガソリンを無限に使えるようにしたかどうかの問題に貶めてはなりません。志の高い自発的な自己抑制によってのみ、人は世界中を覆う物質至上主義の奔流から身を引き上げることができるのです。

人間が万物の長であるというのは本当でしょうか。人間の上には「至高の精神」は存在しないのでしょうか。そもそも人間の生活と社会の活動が物質的な拡張だけを尺度に評価されることは正しいのでしょうか。精神の高潔さを犠牲にして物質的拡張を追い求めることは許されるのでしょうか。
 世界はまだ終わりを迎えたわけではありませんが、重要さにおいては中世からルネサンスへの移行に匹敵するほどの、歴史の大きな転換点に近づいています。私たちは精神的に大きく浮揚することを求められるでしょう。これまでにない高いビジョンを持ち、これまでにない高い水準の生き方へと引き上げなければならないでしょう。そこでは、中世のように人間の身体的な本質が呪われることも、もっと重要なことに、近代のように人間の精神性が踏みにじられることもないのです。
 この上昇は、人類学上の次の段階の進化にもたとえられるでしょう。地球上のすべての人類には、上に向かう道しか残されていないのです。

(米国、マサチューセッツ州、ハーバード大学1968.6.8)

緋片イルカ 2022.8.20

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