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横紙さん、こんにちは。
マーティは変化しているんですね。機会あったら三作連続で見てみたいです。
『昔話の形態学』がうちにあったのであったの引用してみますと、
12.主人公が贈与者によって試され・尋ねられ・攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。(中略)
(1)贈与者が、主人公を試す
(2)贈与者が、主人公に、挨拶をし、いろいろと尋ねる。
(3)死にかけている者、あるいは、死者が、自分のために尽くしてくれるよう頼む。
(4)捕らわれている者が、自分を解き放してくれるように頼む。
(5)主人公に、(贈与者となるはずの者が)容赦してくれるように頼む。
(6)取り合いをしている者たちが、獲物の分配をしてほしいと頼む。
(7)他のもろもろの頼み。
(8)敵意をもつものが、主人公をなきものにしようと試みる
(9)敵意をもつものが、主人公と戦う
(10)主人公に対し、呪具が示され、交換しないかと言われる。13は、↑に対して主人公が引き受ける、引き受けないといったリアクション(反応)です。プロップはあくまでロシア民話でのパターンなので、ハリウッド映画で言えば、ジャンルごとのお楽しみが入ると思います。
たとえば、カーアクションであればアクト2に入ってすぐに、そういうシーンが入りますし、スーパーヒーローものであれば変身して活躍するシーンが入ると思います。プロップの機能には演出的な意味合いがないので、創作に応用するなら「お楽しみ」と意識した方が売れやすいかと思います笑
河合隼雄が定本 昔話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションVI〉 (岩波現代文庫)で指摘していたのが、日本の民話は、結婚して終わるものがほとんどなく、鶴の恩返しのようにせっかく得たものが去って行って元にもどって終わる(変化していない)というようなことです。
西洋の心理学の枠組みで捉えると、結婚=子供は成長して新しい伴侶を得る、は自立の証で、この過程で、魔女や竜を殺して姫を助けるのは、母や父を殺していることになる。その枠組みで日本の神話を見ると、自立に失敗した物語になる。だけど、日本には日本の文化があるのだから、西洋の枠組みからみて、自分達をダメだととらえず、こういう文化の枠組みを作るのが大事じゃないかと。それが河合隼雄の有名な「中空思想」に繋がっていきます。
僕の理解としては、そんなかんじです。
自立できない、いつまでも子供でいたいといった心理がロリコン的な文化やひきこもりなんかに繋がっていくという人もいますね。すべてではないけど、一理はあるかもしれないと思います。
父親の克服とか、大人になるとは?といったテーマは横紙さんの作家性のようにも感じました。その視点をもっと広げていったら、横紙さんにしか書けない独自の作品が生まれてきそうですね。
横紙さん、ご返答ありがとうございます。
マクフライ家の変化として捉えるというのは、なるほどと思いました。たしかにその部分でも変化が起きていますね。マーティ個人と合わせても、そこが一番のテーマになっている(第二幕でテーマになっているもの)わけでないので、やはりオマケ的な変化だなという気はします。
三部作として捉えたとき、マーティの怒りっぽいという性格は3で変化していましたかね?3部作でみたら、ドクの方にも何か流れがありそうな気もします。いずれにせよ、見たのが前すぎて、あまり記憶にないです笑
機会があったら見直してみたいなと思いますが。当時は「過去を改変して解決する」という安直さに怒る人もいたというのをどこかで聞いたことあります。二作目をつくるつもりはなくて、ドクと未来へ行くエンドにしてしまったために、2をつくるときに未来から始めるしかなかったという話もありますね。
モチーフに関してはタブーとされる近親相姦のモチーフをコメディのノリでやってしまうところに、ブラックジョークに似た不謹慎さと面白味があるように思います。
「禁止」→「違反」というのはプロップもあげている物語の要素ですが、価値観が多様化している現代では、そこに全面的に共感させるのは難しいような気がします。たとえば「不倫」なんかは昔をタブーの一つとして描けたでしょうが、現代ではそんな展開ばかりではなさそうです。不倫したからといって罰は与えられるとは限りません。
けれど、バックトゥーザフューチャーの「母親に言い寄られる」ことに困るマーティには、おそらくほとんどの観客が共感できるのではないかなと思います。根源的に、母親と恋仲になりたいとはほとんどの人が思わないのでしょう。思わないように無意識に避けようとするのか。
両親のプロットが、ただのタイムスリップものでない人気の要因であるのは全く同感です。
エディプスコンプレックスを克服する=父親殺しといったモチーフは成長の証として、アメリカ映画によく見られる気がします。あるいは評論家がその視点から、論じたがるのかもしれないと思っています。マッチョ社会のアメリカは父性が強いのも影響してるのかもしれません。河合隼雄は日本の神話・民話を分析して、母親的な文化だと(太陽神がアマテラスであるとか)言っていますが、日本の物語では父親を越えることよりも、母親から離れることの方がテーマなのかもしれません。この辺りは語り始めると、答えもないしキリがなくなってしまうのですが笑
横紙さん、ありがとうございます。
ミッドポイントで「WANTではなく「NEED」に気付く瞬間というご指摘はとても鋭いご指摘だと思います。まったくその通りだと思います。
ストーリーのタイプにもよりますが、アクション映画などではミッドポイントが、ただストーリー上の変化が起きる地点としか機能していないものもたくさんありますが、そういう作品は主人公の変化や成長をテーマにしたものではないので、別物と考えるべきだと思っています。
「主人公の変化」という内面の問題と「物語の展開」という構成の問題をリンクさせたものが、ボグラーなどがいうヒーローズジャーニーとかハリウッド三幕構成の考え方ですが、このメリットとしてはセオリーに従うだけで、ある意味、誰でも主人公の変化(っぽいもの)が描けるところです。でも、本質的に「人間が変化するとは?」といったことを考えていくと、主人公がミッドポイントで「何に気付くのか?」などが重要になってくると思うし、それ自体が物語のテーマにもなることもあると思います。
お笑い芸人の話だとしたら、当初の目標を達成してみて「そもそも何でこんなことしたかったんだろう?」と自問したり、「ここに来るまで家族に迷惑かけてきたな」と気付いたり、目的を1つ達成することで、次の目的を探す必要が出てくるので、変化するきっかけになる地点だと思います。
学園青春ものとかで「文化祭でお笑いショーをやって、人気者になる(狙っている女の子に注目されたい)」といったストーリーであった場合、最初の「WANT」である「文化祭でお笑いショー」はミッドポイントでは達成されずに、三幕の見せ場まで引っ張ることになると思います。代わりにミッドポイント付近では「狙ってる女の子に彼氏ができてしまう」とか、別の展開があると思います。
バックトゥーザフューチャーのミッドポイントは横紙さんがおっしゃる「消え始める」地点だと思います。厳密にビートの定義をしておくなら、PP1でタイムスリップして以降「戻る方法を見つける」というのが目的なので、「消え始める」直前のドクとの会話で「雷を使えば戻れる」という帰る方法を見つけた地点がミッドポイントといえると思います。「消え始める」のは、次の目的「父と母をくっつける」プロットが始動する地点なのでビートとしては「フォール」になります。同じシーン内ですし、そこまで厳密に定義づけなくてもよいのですが笑
ちなみにマーティーは変化という変化はしていないので、NEEDはないような気がしますね。ミュージシャンになりたいというフリがあって、ステージで演奏するというウケはありますが、その点に葛藤はしていないので、あくまで設定レベルの行動だなという気がします。最近、見られた横紙さんにはどう見えましたか? よかったらご意見きかせてください。
横紙さん、サイトをご覧頂いてありがとうございます。
ご質問のミッドポイントまでの展開ということでしたが、3つポイントがあると思います。
1つめは映画を参考にすることです。
映画のミッドポイントは音楽や映像など演出上でも盛り上げているので見つけやすいです。めちゃわかりやすいのは『タイタニック』ディカプリオとケイトウィンスレットが舳先で抱き合ってる有名なシーンとかですかね。プロットポイント1から、そのシーンまででどういったシーンを展開をしているかと逆算して見てみると参考になると思います。二幕前半について具体的に書いているのはSAVE THE CATのビートだと思いますが、Bストーリー、お楽しみといった書き方しかされていないので、迷われるポイントだと思います。ここはビートシートの抜けている部分だと思うので、僕は個人的に「バトル」というビートでとらえるようにしました。これは一言でいえば「葛藤シーン」です。
ちなみに分析してみると葛藤シーン(=バトル)が大きいものが一つしかない作品もあれば、細かいバトルがたくさんあるような映画もありました。なので「バトル」の数にはセオリーはありません。
2つめは「主人公の目的」についてです。
二幕は「葛藤だ」とよく言われますが、「葛藤」は「主人公が目的に向かう力」と「それに向かう障害や壁」によって成立します。ミッドポイントまでの展開に迷う原因は、二幕前半での主人公の「目的」が曖昧なことがよくあります。思いつきの、適当な例で恐縮ですが「あるサラリーマンが、お笑い芸人を目指す」というような話があった場合、具体的にお笑いの学校に入るのか、路上ライブを始めるのか、第二幕自体いろいろあると思いますが、ともかく「お笑い芸人を目指す活動を始めること」がプロットポイント1になると思います。
その時点で「いつか○○劇場でライブをやる!」とか「テレビに出る!」といった、一つの具体的な目的を持たせてやると、その目標が達成された時点がミッドポイントになります。逆算して、その目標を達成するためにどうするかが「バトル」(ミッドポイントまでの展開)になります。もちろん構成の仕方はいくつかあるので、ミッドポイントで達成しないやり方もたくさんあります。
具体例なストーリーで「こんな展開だとミッドポイントどうなる?」と聞いていただけたら「それだと、こんな風になるのでは?」とかお答えできるかもしれません。既存の作品の場合、忘れてたり、読んでなかったりすると、すぐにお答えできないと思います。
3つめはミッドポイントの意義です。
個人的には、ミッドポイントは三幕構成の本質と言ってしまってもいいぐらい重要だと思っています(そのことはどこかの記事でも書いた気がするのでが見つけられませんでした。すいません)。ミッドポイントの意義に関しては、お持ちのシドフォールドの脚本術2でCBとして書かれている辺りは参考になると思います。より深く考え出すとジョーゼフキャンベルとかになりますが、逆に混乱してしまうかもしれません・・・。僕の場合は作品の分析をたくさんこなしている中で気付いたことが大きかったので、今のところ書籍で「これだよ!これ!」というのは見たことないです。とにかく既存の作品を分析してミッドポイントを見つけるうちに「ミッドポイントとはこういものか!」というのが見えてくると思います。もう少し説明したいと思うのですが、なかなか文章にするのはむずかしいです。返信、長くなりまして恐縮です。わからない点ありましたら、いくらでもご質問ください。
クマさん、コメントありがとうございます!
映画を見るだけで、クマさんのおっしゃる初期衝動的なものが湧いてくるってありますね。よくわかります。
とくに、いい映画とか見たときは、深夜の勢いで書いてしまったり。最近の僕は、小まめに休憩をして、家の近所を散歩しにいくようにしてます。
頭では書いていた物語のことを考えているんですが、歩いていると不思議とアイデアがわいてきます。僕は分析家とかそれを講習にしたいとかを目指している人間ではないので、定義づけることより、よくある定義や解釈とのズレから、その物語の独自性や、失敗していると感じるところが見えてくるのが面白いなと思っております。
あたりまえですが、僕の意見もけして答えとかではないので、みみたぶさんが自分の中でしっくり来る捉え方がみつけられるのが一番だと思います。
いろんな人の意見を聞くのは僕もとても参考になるので、こういったコメントいただけるのは嬉しいです。
以前は仲間内で勉強会といって、同じ作品を分析して、ああだこうだ言って飲む会を定期的に開いていたのですが、今はなくなってしまって。ネットを使いながら、そういった環境作りをしていきたいなとも思っているのですが、模索中です・・・。
ビッグバトルに関しては、後半はアリソンとの関係がメインのプロットになっていると感じたので僕も「アリソンに謝りにいくこと」が大きなバトルだと感じました。
たぶんストーリーでビートをとるなら、その方が良いと思います。ただ映画では演出上でもビートを作っていて、どっちかというとこっちが優位なことが多いので、ある程度は型式的にとっててしまった方がわかりやすい時がよくあります。そういう意味ではなれないうちは、時間軸を目安に捉えてしまった方がわかりやすいときもあります。
その方向で、もっと割り切ってとるなら、落ち込んでいる状態のところへ「友人から電話がきて結婚パーティーのことを思い出す」あたりをターニングポイント2=ビッグバトル開始ととらえてしまってもいいと、今は思いました。
その場合「ビッグバトル」は友人や銀行員としての出世など、アクト1で得たことの集大成のようなシーンになっています。そうなると「元妻とのキス」は、ツイスト(ブレイクスナイダーがいうところの高すぎる塔)で、本当の自分の気持ちに従ってアリソンに会いに行くとなる……。
よくビッグバトルでは「パーティー」のシーンというのがあるのですが、ここにアリソン自体も呼んでしまう展開にしていれば、このシーン内で、いろいろと処理できたようにも思います。そうしていれば「ビッグバトル」感がもっと出たかもしれないなと思ったりします。
ピンチに関してはかなり形式的にとっています。
「ピンチ」はシドフィールドの考えですが、一般的にはビートとしては認知されていないので、曖昧な作品も多くあります。シドフィールドの本を読んでから、意識してみたら、ピンチに該当するものがよくあるので、僕はビートとして入れてしまってます。みみたぶさん、分析ありがとうございます。
アリソンをサブキャラクターとしたのは、アクト2に入ってから登場しているキャラクターという理由です。
この映画はアクト1~ミッドポイントまでは、主人公の人生が好転していく上りのアーク、
ミッドポイント~オールイズロストまでは、アリソンの愛を得るという別プロットという感じがしました。
後半では明らかにメインキャラなので、アリソンはメインキャラクターと呼んでしまってもよいと思います。サブプロットが後半ではメインプロットになってくるという展開がコメディ映画にときどきあります。
ジムキャリーの『ライアーライアー』でも「弁護士の仕事」と「家族の愛を得る」という2本のプロットがあって、ミックスプロットと呼んだりします。
この映画でも、ミッドポイントの後は「裁判シーン」をやっていて弁護士映画のようで、アクト3では思い出したかのように「家族の話」に戻ります。でも違和感はあまりありません。実は『バックトゥーザフューチャー』もこれに近い型で、ミッドポイント~オールイズロスまではダンスパーティーのシーンで「父と母をくっつける」イベントがあり、ビッグバトルは「未来に戻る」ための車のシーンがあります。
主人公のWANTが2つあって、どちらも比重が大きい場合など、プロットが2本あるように見えます。こういうミックスプロットの場合、「フォール」からアークが始まるというよりは、別プロットが始まるという感じなので「アリソンとの再会」を起点と捉えられれば、落ちている感じはなくても、構成上の切れ目にはなっていると思います。
ただ「YESの呪い」という魔法のランプというストーリータイプにのっている点では、翳りが見え始める点かなと感じたので、感覚的にとりましたが、「アリソンとの再会」をフォールとしても良いと思います。みみたぶさんの仰る「死を連想させる」という定義はブレイク・スナイダーの「迫り来る悪いやつら」にありましたか??
僕は、「フォール」ではあまり死のイメージはあまりないような気がします。
「オールイズロスト」や「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」では死の匂いがするという書き方をしている本を見掛けた記憶がありますが、これも必ずしもではないなと感じて、僕はあまり重要だとは感じていません。もし「ダメ男が、必ずYESという言う誓いに従って、アリソンの愛を手に入れる」というログラインであれば、アクト1からアリソンを登場させて、次のような構成になってきます。
アリソンにアタックするけど拒否される(カタリスト)
→YESの誓いを立てる(PP1)
→アクト2に入ってアリソンの気持ちが傾いてくる(バトル)
→ミッドポイントでキス。(ここがハリウッドホールでもいいと思います)
→何でもYESと言っていただけとバレて、うまくいかなくなる予感が「フォール」などとなってくると思います。それならアリソンとのラブストーリーに見えると思います。
みみたぶさん、コメントありがとうございます。
10のジャンルと仰っているのはCat2にある「10のストーリータイプ」のことでよろしいですかね?脚本を書かれているなら「10のストーリータイプ」に載っている映画で、
小説を書かれているなら「CATで小説を書く」で小説を、という感じになるかと思います。
今のところ、その拘りがなく、三幕構成の基本を身につけるのが目的でしたら、映画から入った方が楽だとは思います。映画はだいたい2時間で終わるので、見直しても一日で終わりますしアメリカ映画(特に大作映画ほど)はっきりとしたビートがあるので見つけやすいです。
小説は分量も長いし、後からどこにどのシーンがあったか探すの大変だったりもしますし、文章ががうまい作家ほど、変化が多くどれもビートに見えてしまったりするかと思います。
せめて、短編ぐらいからやっていくと良いかも知れません。
正直、僕も小説の分析は、読みながら「これがプロットポイントだな」とかは感じていますが、厳密にはまだしたことありません。 -
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