あるネット記事を読んだ。
リンクも貼らないし情報源も書かないが「ある男性が友人とのLINEのやりとりにうんざりした」というだけの煽り記事である。
男性と友人は同窓会で再会した。10年ぶりに近況を報告しあうと、男性と知人との間には、仕事やプライベートでの格差が生まれていて、知人は嫉妬まじりにネガティブな発言をくりかえし、そのせいで関係が切れたのだという。
男性の発言にはちょいちょい傲慢な考え方が透けてみえる。
「自分が企業して社長をやっているのは努力の結果である」という発想の裏には、ダメな人は努力していないからだという自己責任論があるし、友人のネガティブな発言に嫌気がさして「関係を断ち切る決心をした」というのも思いやりに欠ける切り捨て思考がみえる。友人ではないのか? そもそも、取材を受けて、LINEのやりとりまで公開していること自体どうなのか……
男性側への取材という形で、一方的に書かれているので、友人側を擁護したくなるが、まあ、一言でいえば、相性の合わない二人が仲違いしたというだけの話である。
学生時代は、クラスや部活という学校生活の枠のなかで仲良くしてても、社会に出るとそれぞれ生き方も価値観も変わってしまって、むかしのようには戻れないなんてことは、よくある物語だ。
男性の方にも、むかしに戻れなかった寂しさがあって、もやもやした気持ちから取材を受けた部分もあるのかもしれない。「本当は仲良くなりたかったのに……」。
では、こんな「ネタ」を取材して記事にしている記者はどんな気持ちでこれを書いたのか?
何かを伝えたいという思いに突き動かされて、これを書いただろうか?
タイトルからして、いかにも、アクセス数稼ぎの煽り記事だ。
煽るために書いたのなら記者としては優秀なのだろう。「今の時代は、こうやって読ませるのだ」というテクニックに長けている。記事をタップして読んでしまった僕は、その術中に見事にはまったことになる。
そもそも、取材すらしてなくて、この記事のなかの男性も知人も存在すらしない可能性だってある。
フィクションであれば小説と変わらない。もはや作家だ。
まあ、情報のディテールを考えると完全に創作ということはなくて、少なくともモデルはいるだろうが、どこまで取材して、どこから“盛ってる”かはわからない。ノンフィクションというジャンルに括れば、やはり小説といえる。
人はネガティブな情報に反応しやすい。
記事も小説も同じだ。
煽るだけでメッセージ性のない物語が売れる。
芸能人のゴシップでも、ついタップしてしまう。
一度読むと、ニュースアプリの機能が、似たような記事をオススメしてくる。
また、読む。
読んで「なんだかな~」と思う。
その「なんだかな~」を解消したくて、いま、こんな文章を書いている僕。
この記事を目にした誰かを、また「なんだかな~」という気持ちにさせてしまう。
ネガティブの連鎖。
そんな情報は無視すればいい、と賢明な人は言う。時間の無駄だ。まったくその通り。
わかっていても、またタップしてしまう。反射的に。
デバイスやユーザビリティが進化すればするほど、考えるよりも先に感情に動かされてしまう。
思考することで、時代に対抗しなくてはいけない。
ネガティブだからといって、目を背けてはいけない情報もある。
遠い国のできごとなど、自分には関係ない、どうせ何もできない、考えても暗くなるだけ。
何もできないけれど、思いやることはできる(たとえば友人が苦しんでいるとき、何もできないとしても、無関心でいられるか?)
もはや、時代遅れの考え方かもしれない。
けれど、思考をやめた人間は、感情剥き出しの動物でしかないと思うのである。
幸せな家畜であるより、貧しくとも人間でありたい。
緋片イルカ 2020/07/08