※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。
妻の浮気シリーズは「綺羅星」読めますか?(ゲス漢16)からの連作です。
わたしは駅からの夜道を歩きながら、松山くんの話を思い返していた。
「妻が不倫してるんだ……」
その言葉を聞いて、わたしのことを言われているかと思った。
「友達と会ってくると言ってご飯も作らずに遊びに行くんだ……」
松山くんは高校卒業後に入った大学をたった1ヶ月で辞めてしまったらしい。妊娠して辞めたわたしも似たようなものだけど、松山くんの場合は作家を目指していた。それを聞いて、妙に納得した。
「神保町の古本屋でアルバイトをして、その店に通っていた出版社の人に誘われて編集の仕事へ移ったんだ。古地図の専門の小さな会社。地味な仕事だけど性に合ってたんだ」
「うんうん」
わたしは頷く。松山くんの人生がわたしの中に流れこんでくる。
「仕事は楽しかったけど、40歳を過ぎた頃から寂しくなることが多くなった。金曜日の夜、暗い帰り道をコンビニ弁当を買って帰るときなんかにさ、ふと、自分はこのまま老いて死んでいくのだろうか、なんて思うんだ」
知らないキモチだった。ギュッと螺子で締めつけられたように胸が苦しくなった。家族に囲まれて生きてきたわたしは一人になりたいと思うことはあったけど、サミシサを感じたことはなかった。
「恋人はいなかったの?」
「1人だけいたよ。若い頃にね。でも25歳のときに彼女のお父さんがケガをして、介護が必要になった。彼女にとっては、田舎に帰らないという選択肢はなかった。俺には、彼女についていくという選択肢があったけど、選べなかった……いや、選ばなかった。仕事を辞めたくなかったし、岐阜なんて行ったこともし、なにより彼女と結婚してそこで暮らしていくという自分が想像できなかった。何年かして、お父さんが良くなったら、彼女がまた戻ってくるんじゃないかと思っていた。もちろん、彼女の口からそんなことを聞いた訳じゃないけど、そんな風に勝手に思っていたんだ」
「戻って来たの?」
松山くんは自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。
「手紙が来たよ。お父さんが亡くなったことと、彼女が結婚したことが書かれていた。もうすぐ子供も生まれるってね」
愛する人と別れなきゃいけない愛別離苦(あいべつりく)。わたしは松山くんから教えてもらったばかりの言葉を反芻(はんすう)した。
松山くんは弱いアルコールを連日飲むようになったらしい。焼酎やワインのボトルを買い込んでは、朦朧とするまで一人で飲んで気がつくと朝になっていて、そのまま仕事へ行く。食欲がないと食べるものも食べないで猛暑の中、外回りをしているときに、ついに倒れて、救急車で運ばれた。
そのとき、病院で働いていたのが今の奥さんだった。
「若いし、美人だし、何で俺なんかと?って思ったけどね」
二人は1年交際して結婚した。プロポーズは彼女の方からだった。
奥さんとなったその彼女が、松山くんを裏切って不倫をしていた。
「大げさな言い方だけど、俺にとっては彼女だけが生きる支えだったんだ」
家の前に着いた。涙がにじんでいた。化粧をしてなくてよかった。
わたしは指先ですっと眦を拭いて、夫と子供達の待つ家へと帰った。
(つづく)
今日の漢字:「眦」(まなじり)
目尻のこと。目頭は寄り目にする内側、目尻は外側、耳のある側です(念のため)。まなじりの「まな」は眼(まなこ)と言うように目のことで、まなじりが目尻になりました。「眦を決して」は慣用句で強い決断をしたときの様子をいいます。
(緋片イルカ2018/11/22)