※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。
松下響子は車椅子で現れた。電動ではなく車輪を手で回すタイプの車椅子。押そうとしたら断られた。
「脚が動かないから、頼れるのは腕だけなんです。いざというとき腕の筋力が衰えていたら嫌じゃないですか?」
「いざというとき?」
俺は聞いた。
「うーん、痴漢に襲われたときとか?」
と言って、ハムスターみたいな白い前歯を見せて笑った。入れ歯だそうだ。
27歳という若さで障害者となった響子は辛さなど口愛(噯)にも見せずに過去を語った。
「世界中を旅するのが趣味だったんです。亜米利加(アメリカ)は西も東も行きました。ハワイ、グアム、加奈陀(カナダ)も行ったし……」
思い出しながら指折り数えていく。いまは随分と白いが前はこんがりと日に焼けていたのだろう。
「濠太剌利(オーストラリ)、土耳古(トルコ)。欧羅巴(ヨーロッパ)は半年かけてヒッチハイクして回りました。亜細亜(アジア)では越南が好きだったな。行ったことありますか?」
「いや、越南はないな」
「ハノイって本当にきれいなんです。いつか行ってみてください! ああ、でも、できれば、ホアロー収容所もみてほしいです……」
響子が初めて翳りをみせた。
ホアロー収容所はフランスが作った捕虜収容所である。ギロチンや拷問に使われた器具が展示されている。俺は越南戦争時代なんていうと生まれてはいたが子供だった。安保闘争とかよど号ハイジャックとか昔のことという気がするが、日本が「いざなぎ景気」なんて浮かれていた背景に戦争があったのは間違いない。
「越南に行くことがあったら必ず行くよ」
「ありがとうございます」
響子が俺を見上げて笑顔をつくった。自分のことのように感じているのだ。それから言葉が少なに、墨西哥(メキシコ)でレイプされた話を始めた。おとなしく金は渡したが襲われて、抵抗したときに殴られ脊髄を損傷した。説明不足でわからないところがたくさんあったが、俺は聞かなかった。
「ほんとに私でいいんですか?」
ホテルの前についていた。安いホテルだが、できたばかりでバリアフリーができている。
質問に答える代わりに車椅子を押してホテルへ入った。響子は一言、
「ありがとうございます」
と、言った。
今日の漢字:「口愛(噯)」(おくび)
(※環境依存文字なので口愛と表記しましたが、正確には「口へんに愛」で一字です)
「口愛気」とも書きます。「口愛にも出さない」「口愛にも見せない」という慣用句で使って、心に秘めて素振りを見せないという意味になります。秘めるのはたいてい相手が嫌がるようなことで、悪い気をさせないためにグッと堪える印象ですよね。日本人的だなと思ったりしますが、その「口愛」自体の意味はげっぷだそうです。でもどうしてげっぷが「口」と「愛」なんでしょう? わかりませんでした笑
(緋片イルカ2018/12/6)