ここでぼくはふいに鋭い炎のような認識に到った。だれにでも「役割」があるんだ、と。それは選べるものじゃないし、書き換えたり、好き勝手したりしていいものでもない。新しい神々を望むのはまちがいだ。世界になにかを与えようとするなんて、とんでもない独りよがりだ。覚醒した人間にとっての義務は、自己を探求し、自分の形を決め、己の道がどこへ通じていようと敢然と突き進むこと、ただそれだけだったんだ。衝撃だった。
(ヘルマン・ヘッセ『デーミアン』酒寄進一訳)
現在、僕が書いている小説で「役割」という言葉を象徴的に使っていたところに、この一文を見つけて思うところがありました。
内観することの多いヘルマン・ヘッセらしい文章です。
物語の一部なので、ここだけ読んでもわかりづらいとは思います。シーンはそれまで心の導師のように感じていたピストーリウスという人物との擦れ違いが生じた場面です。引用文の真ん中にある「新しい神々を望む~独りよがりだ」というのはピストーリウスに対する言葉です。
そこを抜きにしても、「誰にでも『役割』がある」、それは「選べるものではない」「書き換えたり、好き勝手したりしていいものではない」。
こういった感覚は、読む人によって、受け取り方が変わりそうです。
何を言ってるのか、わけがわからないという人は若い人かもしれません。
「人には運命があって逆らうことはできない」と安直にとる人もいるでしょう。
あるいは「自分の天職はこれだ!」といった表面的な役割でもありません。
引用した分の直後には次のようにあります。
それが今回ぼくが体験したことの成果だったとは。これまで、未来をいろいろと思い描き、詩人とか、預言者とか、画家とか、あるいはなにかほかの自分のために用意されたと思われる天職を夢見てきた。そのすべてが無意味だったんだ。ぼくの役目は詩作や説教や画家にはなかった。ぼくをはじめだれひとり、そんなことのために存在しているわけじゃない。そんなのは二次的なことだ。
では「役割」とは何なのか?
それはこの小説を読んでいただくしかありません。理屈ではなく、内なる自分と向き合い、心の声に従うことで見えてくる自分の「役割」を、主人公デーミアンが見つけていくのが(そしてそれが大きな物語に呑まれていってしまうこと)、この小説のテーマでありストーリーであるからです。
読んでみて感じるものが正しいかどうかは、問題ではありません。
年をとって感じ方が変わるであろうことも言うまでもないことです。
僕も10代のころに読んだ『車輪の下で』は、読むのが苦痛だった印象でしたが、それは文章の背後にある感覚(サブテクスト)が当時は読み切れていなかったのだと思います。
ヘッセはストーリー展開よりも抒情的な文章が多く、感覚を合わせられないと、堅苦しい言葉の羅列に見えてしまいます。ユング派に傾倒していたので、その理論からくるような文章も、心理学に関する知識がないとちんぷんかんぷんかもしれません。
そのわからなさに深遠さを感じる人もいて、別の意味が加えて読まれることもあるのでしょう。第二次大戦後のアメリカでカウンターカルチャーとしてのヘッセの読まれ方は、べつの「役割」を担っていたのだと思います。
ときに「読むこと」は「書くこと」以上に難しいことはあるのかもしれません。
緋片イルカ 2020/04/11