小学生の頃、一年間ほどスイミングスクールに通っていた時期があった。好きで通っていたわけではなかった。むしろ、週一回のスクールに行かなくてはいけない日が来るのを、いつも憂鬱に思っていた。
泳ぐこと自体は好きでも嫌いでもなく、背泳ぎをしているときに天井が見えるのは少しだけ好きだったが、それ以上に人前で下着同然の恰好をしなければならないのが嫌だった。プールの中でこっそりとおしっこをする子がいることも知っていたから、そういうところも嫌いだった。(『改良』遠野遥)
これは物語の冒頭です。これだけで、この作者の文章がいかに読みやすく、物語に引き込んでいく力があるかがわかると思います。
選考委員の磯﨑憲一郎さんは「作者独特の視線と身体性に根差した、他に似たものを知らない語り口」と選評に書かれています。
『改良』は第56回文藝賞を受賞した、遠野遙さんのデビュー作です。
大学生の男性である「私」はスイミングスクールが一緒だったバヤシコという少年に
「たぶんお前は身体は男で心は女っていう、そういう人なんじゃないかと思うんだよ。なあ、違うか? 絶対そうだって」(同)
と言われ、性的行為を強要されます。
大学生になった「私」は部屋で女装をする。
この辺りからは、あらすじだけをみると、ジェンダーやセクシャルティの物語にくくられてしまいますが、僕はこの物語で抜き出したいと思ったのは次の一文です。
このバイトは私に向いていた。電話をかけてくる人間は、しばしば怒っていたり、機嫌が悪かったりした。しかし自分でも驚くほど、私はそれに対して何とも思わなかった。私にとって、電話の向こう側にいるのはどこか別の世界の人間で、彼らが話すことも、どこか別の世界の出来事のように感じられた。私は彼らに対して、怒りを覚えることもなければ、申し訳なく思うことも共感することもなかった。(同)
この自分と世界との距離感の遠さは、この主人公の特徴(パーソナリティータイプでいえば回避性パーソナリティの傾向)です。
「私」にとって、知り合いには誰にも見せたことのない女装姿で、デリバリーヘルスのカオリと会おうとすることはは、世界に一歩近づいた瞬間なのかもしれません。
そのことを契機として(構成でいえばPP2として)物語は、クライマックスの事件へと発展していき、「私」は自分の中にある怒りを思い出します。それは小学生時代のバヤシコへの怒りともつながります。
「怒りを覚えることもない」と言っていた「私」は、クレーム電話を入れます。
選考委員の斎藤美奈子さんは「彼が感じる屈辱と無力感は、レイプ被害者の感覚をほぼ正確に表しています。」と書かれています。この物語がその側面から読まれることは妥当だと思います。
一方で、文学として向き合ったとき、町田康さんの選評の言葉がとても刺さりました。
人物が配置され、筋は淀みなく流れ、主題を巧みに展開して一切の無駄がなく、小説かくあるべし、というような小説であるが、そこのところが逆によくないのではないか、とも思った。なぜなら主人公がどうしても制御できずあがいている、そのもの、を作者が容易にコントロールしているように見えてしまうからである。そのことにより全体が図式的に見え、「失った自分を取り戻す」という主題が陳腐で凡庸なものに思えてきてしまう。そうするとまた冒頭の、もっとも古層にある「屈辱」の体験が、ただ筋書きのための事件のように見えてしまうのである。(文藝賞選評より)
町田さんは「この作者が並外れて上手な書き手であることは間違いがない。」とも書かれています。
上手い「語り口」と、激しいクライマックスに引っ張られ、見落としてしまいがちな、文学が向き合うべき本質のようなものについて語っているように思います。
村田沙耶香さんは言葉という角度から同じことについて言っているように感じます。
魅力的な人物が小説の中に説明され、置いてあるだけではなく、小説が「動く」瞬間が見たい、という欲張りな気持ちになった。それは不必要な小説的な展開という意味ではなく、小説の中で深い部分まで言葉が進んでいくこと、何か特別な化学変化があること、その部分が少し弱いように感じられた。(文藝賞選評より)
遠野さんは二作目『破局』は2020年に芥川賞を受賞します。こちらは次回の読書会で扱います。
緋片イルカ 2020/09/07
改良、読みました。文章がわかりやすかったです。
全然関係ないのですが、FBをみていたらマスク着用の機会が増えて、Maskne なる造語ができた、と。
https://www.today.com/health/how-dirty-your-face-mask-today-anchors-are-put-test-t191210?cid=sm_npd_nn_fb_ma&fbclid=IwAR09BuLCsL1ukXwOmgQePfvcLr-WA849LL7rTa27dZFAhXEbHmPyUzbdnhU
maskneで画像検索すると
https://www.google.com/search?q=maskne&sxsrf=ALeKk01EPm0g9qwOfH2KWSJbC0zIDL0RRA:1599992951502&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwiQuZGc9uXrAhUvyYsBHeE3AQEQ_AUoAXoECAsQAw&biw=1707&bih=803&dpr=1.13
こんな感じ
マスクとの接触による顔の皮膚炎のようです。
日本語でもあるかな、と思ったら、
https://www.clinicfor.life/articles/beauty-033/
同じような報告がありました。
ご参考までに。