しまうまの物語論<限界について>

リクエストがあったので、私なりの物語論を書こうと思う。
私の物語論はイルカさんのように体系だったものでもないし、有名なライターが書き上げた理論を土台にしたものでもないことを予めご了承下さい。

■物語論の限界について:共通認識が無ければマス向け物語は作れない
▼流行について
まず流行の始まりと終わりについて明確にしておきたい。

ティーンエージャーが流行を作る。

教師や家族などティーンエージャーと関わり合いのある大人が流行を知る。

メディアが取り上げる。

普通の大人も知り、流行が大規模に。ティーンエージャーはその流行から離脱開始。

大人がその流行について語ったり、使用したりする。流行としては最大化するが、核心部分では空洞化が終わる。

ティーンエージャーが流行をダサいとする。

流行が終わる。

▼理系と文系、「流行」の違い
理系の場合、「水」というキーワードがあった場合、「100度で沸騰」「0度で凍る」「無味無臭」「透明」…と複数の共通認識がある。そして新たな発見があるまで、その認識が更新されることはない。trendに近い。

文系の場合は、流行を無視するとウケないので流行に縛られる。crazeやfadに近い。「水」というキーワードが出てきた場合、100人中50人以上が「水素水」をパッと想起する時期であれば、「水素水」を扱うか、扱わない理由を明示・暗示しないと話の流れとしておかしくなる。
「流行を作るようなポジションになればいい」と思っても、「水」=「水素水」の時期に、「水」=「液体」の話をするのは難しい。(だって皆は「水素水」の話が聞きたいんだから)
「液体」という結果ありきであれば、視点をズラした「プール」の話を持ってきて、「プール」=「液体」と唱える方が現実的だ。

▼矛盾
流行には共通認識が必要だが、文系の場合はその構築が一過性であり、またそもそも困難で、構築出来た時点でそれは「時代遅れ」の印象を持つので率先して壊さなくてはならないというジレンマがある。

では、あえて流行に乗らないというポジションを実行した場合はどうだろうか?答えとしては、「川の真ん中の石」となる。地理的には変化していなくても、川の水がマスであれば同時代のマスは海に向かって流れており、石のまわりの水は見知らぬ水になっている。つまり流行に乗らなくても状況は変わるので、変わらないことは出来ないということだ。

▼物語論の限界についての結論
マスの多くはドラマや映画でストーリー的に裏切られることを期待しており、それは「物語論の黄金比」が作られた時点で壊すべき対象となることを意味している。そんな中で理論を組み立てるのであれば、「人はいつか死ぬ」といった類のことしか書けない。
「物語には始まりがあります。ただし終わりは保証されていません」
「映画は光の粒子と音の波長の組み合わせの変化でしかありません」
「俳優は演じる(嘘をつく)ので極論として正直者はいません」etc…

ストーリーを量産しなければいけない立場であるのならばともかく、「物語のテンプレート」を見つける努力をするのはオススメしない。それはもはや「物語」ではなく「業務マニュアル」に近いものだから。

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