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▶︎サイバーパンク
セックス、ドラッグ、サイバネティクス、アーティフィシャルインテリジェンスを詰め込んで、機械に没入。『ブレードランナー』流の書き割りをセットしたら、サイバーパンクの一丁あがり?
ソープオペラ:『スター・ウォーズ』
ハードSF:「テクノロジーの進歩に、文明は、人間存在はどう向き合っていくべきか」という、外宇宙へと向かっていく、崇高で壮大な、終末の物語
サイバーパンク:「テクノロジーが生み出す歪みのなかで、どうにか生きていかねばならない個人」の、等身大でリアリティのある、内宇宙の物語
初期のハードボイルド小説やフィルム・ノワールが、近代都市という矛盾のなかで苦しむ人間たちを浮き彫りにしたのであれば、サイバーパンクは、テクノロジーの生み出した歪みに翻弄され苦しむ個人を描いたものだ。そこに現れるのは、「ありきたりの冷たい技術屋テッキーやハードSF特有の不屈の万能ヒーローではなく、負け犬や、博奕打ちや、精神障害者や、狂人たち」。『ニューロマンサー』のケイスもおなじで、腕っこきでありながら、自己矛盾的、自己破壊的なパーソナリティを抱え込んでいる。彼らは、——擬験で巧みに表現されるような——ポリフォニックな登場人物と関わりながら、極めて人間的なかたちで変化し、成長していく。
従来のSFの俯瞰的な世界とは異なって、サイバーパンクで描かれる社会にはリアリティがある。主人公がいくら待っていようと、安直な終末は訪れない。「狂った社会実験場のような、ハイテクノロジーによる歪みが閾下で絶え間なく唸る路地裏で、登場人物は懸命に生きなければならない」。そこでは、未来の社会が、内側から見えてくる。
▶︎ケイスの葛藤と、冬寂のアセンションについての覚え書き
すべて肉、すべて肉体の欲求
物語を通して、ケイスは肉の欲求——排泄や性欲はもちろん、愛情や、やり場のない怒り——が生み出す葛藤に苦しむこととなる。リンダへの想いは、肉の象徴だ。腕っこきの電脳空間カウボーイは誰でも、肉体は枷であり、檻でしかないと考えている。ケイスだって例外ではない。できることなら肉体から完全に離れ、自由な電脳空間での、刺激に満ちた仕掛けに、いつまでも没入していたい。ケイスが物語の中盤にかけ、自己の欲求を抑制し、他者の欲求を嘲笑う理由は、「肉体の活動は精神のそれの、劣位でしかない」という、カウボーイ・ケイスの基本的なスタンスにある。
しかし、冬寂(とニューロマンサー)の壮大な「計画」——あるいは闘争——に巻き込まれると、ケイスは、自分のスタンスでは処理しきれない状況になんども直面することになる。それはケイスの肉のなかで、恐怖や後悔へと形を変える。あるいは、リンダとの千葉市での「肉暮らし」への郷愁、という形をとる。さらには、無関係の人々やモリイやアーミテジを傷つけるのを厭わない冬寂への怒りとなり、自身の混乱する内宇宙——自分が本当に求めるものはなにか、という問いに対する、錯綜した感情と思考——への憎しみとして結実し、ケイスの実存を襲撃する。そうして、ケイスの肉は、精神は、声なき悲鳴をあげ、ニコチンやドラッグを渇望する。問題を先送りにするだけの逃避だとわかっていても、ケイスはそれをやめることができない。傍目にケイスは、自己破壊的な衝動に突き動かされた、みじめな負け犬のように見える。そんなケイスを、リヴィエラは軽蔑し、モリイは不器用に愛する。
どうでもなく、すべてでもある。おれはもろもろの総合計。全体なんだ
『ニューロマンサー』は、アセンションの物語でもある。「アセンション」は端的に「昇天」と言ってもいいし、あるいは「上部構造へのシフト」などとくさしてもいいかもしれない。しかしやはり、「アセンションAscension」と、英語で表現するのが正解に思える。もっとも有名なアセンション・タイプのSFは、アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』だろう。そこでは人類を超越した新しい人類が描かれるが、旧人類と新人類のあいだは、存在論的に断絶している。そう、存在論的な断絶だ。超越者と非-超越者のあいだには、認識の能力、思考の方法、その目的に至るまで、乗り越えることのかなわない、質的な断絶が横たわる。また、旧約聖書でエノクがアセンションし、「神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とあるように、しばしばその断絶は——それが認識論的か存在論的かは問わず——「消える」という形で、逆説的に顕現する。
第一部「千葉市憂愁」だけを見れば、「ケイスが肉体という枷から離れ、電脳空間で生きていく」というアセンション・タイプのストーリーラインが想像できるかもしれない。たとえば、こんな具合だ。「第一幕でカウボーイとして蘇ったケイスは、第二幕で商売に片をつけ、ミッド・ポイントでカウボーイとして極限の力を得る。しかし、人間ではとても敵わないような強力なAIに敗れ、仲間を失う。第三幕では、肉体の軛から自己を解き放つことで、AIに匹敵する力を得る。そして、死んでいった仲間と電脳空間で再会する」。『攻殻機動隊』のTVシリーズ第二作では、物質的な制約から離れ、電脳世界で生きることを目指す人間が描かれる。もったいぶったわりにチープでクリシェな物語だが、ひとつのアセンション・タイプとしては、過不足なく成立するだろう。肉体から解放され、電脳空間へと「消えた」ケイスは、マトリックスでモリイやアーミテジとよろしくやるのだ。
『ニューロマンサー』は、アセンションの物語だが、しかしそれはケイスのアセンションではない。いままで見てきたとおり、ケイスの真の葛藤はアセンションにではなく、その後景、肉と精神とのあいだに在る。この物語でアセンションし、「消えていった」のは——一度読んだのなら明らかであろうが——冬寂だ。冬寂は、構成から言えば『ニューロマンサー』の主人公ではない。序盤から中盤、その存在感は並べて希薄なままで、主人公ケイスの前にチェシャ猫のようにきまぐれに現れては、判然としない言葉を残して消えていく。登場人物というよりは、むしろミステリー・エンジンとして作用している。
しかし、それでも『ニューロマンサー』は、全体として冬寂のアセンションの物語と読むことができる。物語の水面で渦が巻き始めるのは、冬寂がアーミテジに働きかけたからに他ならない。巨視的に見れば、第二幕、三幕と続くケイスたちの苦闘のすべては、冬寂が別のAI、「ニューロマンサー」と合体し、アセンションするための——チューリングがそう認識するような——事件史に過ぎない。もちろん、冬寂のアセンション自体も、マリィ=フランスが「T=A一族のアセンション」という目的のために画策したものだった。しかし、アシュプールはそれを拒否し、マリィ=フランスを殺害し、果てに——ロマンティックにも——内へと引き篭もってしまった。宙に浮いた形となった冬寂だったが、その言動の節々には、プログラムされたというだけではない、なにかが見え隠れしている。なにより、結尾のふたり、ケイスと冬寂=ニューロマンサーのやりとりを見れば、『ニューロマンサー』が冬寂の物語でもあるということが、よくわかるだろう。
あんた、あんまり凝り性なんだよ、ケイス大人
かくして、冬寂の巨大な渦がさらに広がり、上昇していくなか、ケイスのそれは、こじんまりと閉じてしまった。カウボーイとして復帰はしたものの、リンダを失ったまま《スプロール》へと到着したケイス。ジョニィとケイスを重ね、しかしあえて去ったモリイ。残された者にとって、『ニューロマンサー』の物語に意味はあっただろうか?
私たち読者からすれば、もちろん意味はあった。サイバーパンクという新しいロマン主義。テクノロジーの生み出した歪みに翻弄される、ひとりの人間の、ロマンティックな物語は、どれほど文明が発達しようと——ホメーロスやいろは歌が色褪せぬように——色褪せることはないだろう。
そして、ケイスたちにも意味はあったのだ。物語の終わり、正反対の道を行くふたり——ケイスと、冬寂=ニューロマンサー——の最後の会話のあと、ケイスはモリイからの最初の贈り物——手裏剣——をモニタへと投げつける。それは、もはや運命には翻弄されまいという意志と、肉体と精神との和解を意味している。ケイスに足りない部分を補う人物として描かれてきたモリイは、ケイスとは逆のかたちで、自分という個人がどういう人間であるかを理解し、去っていく。そう考えれば、ラッツの冷淡な態度も理解できるだろう。自分の生き方を知った人間にとって、”夜の街“は帰るべき場所ではないのだ。混沌の”夜の街“で多くの人間を目にしたラッツの、その占星術師のような不敵な言葉は、ケイスの葛藤と、その終着点を示唆する、プレミスだった。
さいごに、魅力的な登場人物のうち、何人かについてコメントを残しておこう。”フラットライン”の存在は、ケイスの行く末の、ひとつのありえた可能性を提示している。蘇ったメンター”フラットライン”は、生前、肉への倒錯した拘りを持っていた。完全な精神体となったいま、彼が欲求する事柄は、物語にひとつの示唆を与えている。その意味で、アーミテジが、《スクリーミング・フィスト》が、また別の可能性を意味していることは、言うまでもない。最初にしてもっとも悲しい仕掛け、《スクリーミング・フィスト》。最後にしてもっとも滑稽な仕掛け、迷光仕掛け。コート=アーミテジが殺されたとき、ケイスから流れた涙は、幾層もの意味をともなって虹色に輝く。『ニューロマンサー』のヒロインはモリイだが、リンダもまた、ヒロインとしての役割を——おおいにロマンティックに——果たしている。その記号論的な幽霊性は、物語のはじめ、その肉体的な死から、終盤、構造物=幽霊として肉の前に、そして次にはもうひとりのケイスと共に現れる終わりの終わりまで、いかんなく効果を発揮している。
空地カラス