毒のある言葉

ヤドクガエルのような毒をもった生物は警戒色をもっている。捕食する側は、自然界で珍しい鮮やかな色を、怪しいと思って食べないようにする。その習性がDNAに宿っているものか、野性的な直感によるものなのかはわからないが、ともかく毒を警戒して食べないようようにする。もちろん、習性を無視して食べて死んでしまう個体もいるだろうが。

人間はどうだろう?

年端も行かない子どもで、毒や有害といった概念を、知識としてはまだ理解できない年齢の子どもは、例えばアメ玉とまちがえて洗剤のジェルボールのようなものを舐めてしまうことがある。「アメ玉は甘くておいしい」という記憶や「この丸くて綺麗なものはアメ玉だろう」という推測が働けば積極的に舐めるだろう。

舐めてみて、文字どおり「苦い」経験をすれば、次からは舐めなくなる。経験から学習するのである。

年齢が上がり、知能が発達してくると苦い経験をしなくとも「洗剤は食べ物ではない」「舐めてもおいしくない」「健康に良くない」といった知識から行動をコントロールできるようになってくる。未経験のことでも、正しい選択ができるようになるのである。

正しいとは何だろうか?

健康や生命に関わることであれば、善悪の基準はハッキリしていて、身体に良いものは善、害のあるものは悪となり、科学的根拠があれば異論は少ないだろう。

けれど、世の中には善悪を決められないものがある。むしろ、そういうものばかりかもしれない。

思春期を迎えた少年が、新しい習い事を始めたくなったとする。

ボクシングとしてみよう。

彼は未成年で、ジムに入ってボクシングを習いたいと親に伝える。

このとき、親がボクシングというスポーツに対してマイナスのイメージをもっていたら、どうだろう? 息子にやらせたくないとしたら、どう言うだろうか?

「危ないからダメ」

それでも、やりたい息子は言い返す。

「スポーツなんだから、危なくはない」

「でも、試合で頭をぶつけて死んじゃった人だっているでしょ」

「それは一部の人で、全員がそうなる訳じゃない……」

「可能性が1%でもあるんだから、とにかくダメ!」

それでも、負けん気の強い少年であれば、何としてもボクシングを始めようとするだろう。

親にとっての「ボクシング」と、少年にとっての「ボクシング」は同じ言葉であっても、同じでない。

ボクシングジムではなく、自動車教習所ならどうだろう?

少年が通いたいと伝えると、親が言う。

「危ないからダメ」

「でも、みんな運転してるよ」

「事故で死んじゃう人だっているでしょ」

「それは一部の人で、全員がそうなる訳じゃない……」

「可能性が1%でもあるんだから、とにかくダメ!」

自動車ではなく、もっと簡単で安全なことであったら?

ピアノとか、そろばんとか、何でもいいが、子どもの自主性の芽を摘むように束縛する毒親がいる。

小さい頃から禁止ばかりされた子どもは、新しいことを始めようという意欲をもてなくなってしまうだろう。

親の放つ「毒のある言葉」で、子どもは精神が弱ってしまったともいえる。

「毒のある言葉」は論理的ではない。論理的に装っているだけで、ただの禁止や否定に過ぎないことも多い。

そもそも、人間は数学や確率に従って、機能的に生きてなどいない。

世の中の、どんな出来事も確率がゼロではないことだって、頭では分かっている。

運転していなくても、轢かれる側になることだってある。

自分の経験則と、経験したことないけど知識から得た法則から、無意識に「自分ルール」を作って生きている。

日常生活に支障がなければ「自分ルール」は正しいものとして、意識されることもない。

けれど、ひとたび、そのルールが通じない状況に出逢ったとき、人は戸惑う。

自分が間違っているのか?

それとも、相手(相手の「自分ルール」)がおかしいのか?

利害関係で衝突していれば、争いが起こる。

相手を否定する「毒のある言葉」が発する。

あるいは「毒のある言葉」を浴びせられて、自分が弱る。

SNSなど見ていると、そんな言葉が溢れている。

「毒をもって毒を制す」とばかりに、誰かを庇おうとして別の誰かが発言するが、それは、また別の誰かにとっての毒になっている。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」のか。

それも一つの哲学、一つの生き方だと思う。

言葉の専門家である作家であれば、解毒作用のある言葉を生み出すこともできる。

それを見つけることは簡単ではない。

知識があるかどうかや、論理的思考に強いかどうかなど関係ない。辞書から探すわけではない。

ましてや、流行り言葉の受け売りで、毒にも薬にもならない言葉で金儲けしているだけのインフルエンサーなどには生み出せない。

ある時、ある場所の、ある人に対してだけ解毒作用をもつ言葉がある。

その言葉を必ず見つけるという責任感、見つからなくても探し続ける覚悟がなければ、本当の意味での作家にはなれない。

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