選考作業から学んだこと③「わからない作品について」

前回、選考時の「第一印象」の大切さについて書きました。

最終選考に残った作品の8割が、第一印象が良いものだったこと、
公募のコンクールでは、何百枚もある作品を下読みの人が、何度も読んでくれるないのではないかということ、一度しか読んでくれないとしたら、初見という意味の「第一印象」で決まってしまう部分が大きいだろということ、などを考えました。

今回は、その真逆である「わからない作品」を何度も読むことについて考えてみます。

選考では初見で「わらかない」と思ったものをCグループとして抜き出して、何度か読み返しました。

人間はわからないと気になる

ミステリーというジャンルが成立するのは、人間に好奇心があるからです。

不可能と思える殺人事件が起きた。なぜだろう? 誰の仕業だろうか?

読者は、その答えを提示してくれる(探偵が解決してくれる)ことを期待してミステリー小説を最後まで読みます。

「おお! そういうことだったのか!」

そのトリックやオチが見事であれば、読者はそのミステリーに拍手を送るでしょうし、

「は? 意味がわかんないんだけど。」

最後まで読んでもわからなかったとき、モヤモヤした気持ちが残ります。

このモヤモヤはストレスなので、解決しようと思います(これが好奇心の元かもしれません)。

ストレスへの対処に3つのFというのがあります。
Fight、Flight、Freezeで、
闘う、逃げる、固まるです。

闘うは「この謎を解いてやる!」と、読者自身が探偵になったかのように、もう一度、作品を読み込もうと思います。

逃げるは「諦めた。もう考えないことにする」と、その謎から離れます。数学の問題やパズルが苦手な人は、逃げることも多いでしょう。

固まるは「んん……」と呻りながら、ヘビに睨まれたカエルのように動けず、思考停止に陥っている状態です。生活上のストレスにFreezeしている人は身体の不調がでたりします。小説の意味がわからない程度のストレスでしたら、そのうち忘れてしまうことも多いでしょう。

これらの反応のちがいは、好奇心の強弱にもつながります。

好奇心が強い人は、何が何でも解決しようと闘います。徹底的に読み込み、自分なりの答えが出るまで追及をやめないでしょう。

作品が追及に耐えられるか?

応募した作品が、徹底的に読み込む下読みの人にあたったします。雑な下読みにあたるよりもラッキーなことでしょうか?

自分の作品を読んでもらいたいと思っている人はラッキーだと思うかもしれませんが、それは同時に「闘い」の始まりでもあります。

読み手「作者よ、自信作なのだな? 徹底的に読ませてもらうぞ」

その追及に「作品」は耐えられるでしょうか。

ミステリー作品で考えてみます。

そのトリックが素人にはとてもわかりづらいものであるけど、きちんと論理的にかかれていて、読み込めば理解もできるし、とてもオリジナリティのあるものだったらどうでしょう?

読み手「ああ、わかってなかったのは自分だった。作者よ、見事であった!」

と、讃辞を惜しまないでしょう。

一流の評論家は「読み込み」の能力がとても高いので、難解だけど素晴らしい作品を、素人にわかりやすく読み解いてくれます。

一方、追及に耐えられない作品とはどういうものか?

読み手「複雑で深そうに見えるが、整理できていないだけ。説明不足、作者の思い込み、矛盾だらけ。理解してみれば内容はありがち。評価に値しない」

ミステリーのトリックなどは知識や論理で解決できる問題が多いので、矛盾しているかどうかも、わかりやすいですが、「テーマ」といった曖昧なものになると評価が難しくなります。

曖昧さと想像の余地

「100文字小説」は単純に文字数が少ないので、情報量が少なくなります。そこに「曖昧さ」が生まれます。ここに短歌を鑑賞するのに似た魅力を感じるときがあります。わからないゆえに想像力をかきたてられるのです。

最終選考会の音声で話したことですが、ある方の作品を引用させていただきます。

どちらも明治ミルクさんという方の作品です。1つは最終選考に残り、1つはギリギリで最終選考から外れてしまった作品です。

みなさんは、どちらが好きですか?

もちろん、どちらも好きという方も、どちらもあんまり……という方もいるでしょう。人の好みという点はいかんともしがたいし、それが優劣でもありません。

好き嫌いを選ぶだけなら簡単なのですが、作品を選考するとなれば、それなりの評価基準が必要です。それが正しいかどうかはともかく、自分はこういう理由で評価したという基準です。

それがないと、コロコロと評価が変わってしまい、きまぐれなコンクールになってしまうでしょう。

僕が最終選考に選んだのは後者で。けれど選考会の雑談で、しまうまさんは真逆だという話になりました。

作者の明治ミルクさんは二作品の応募で、どちらの作品も素晴らしくて、とても文章が上手な方だと思いました。最終選考に残すかどうかは、この二作品で競っていたわけではないのですが(選んでいるときは同じ作者とは知らないので)、あとから同じ方が書いた作品だと知って、魅力的な文章を書かれる方だなと思い、選考会で紹介させていただきました。

「曖昧さ」は想像力をかきたてらます。これは謎を解こうという気持ちとも似ています。

けれど「どういう方向に想像を誘導するかは、作者がコントロールするべきだ」というのが僕の考えです。

つまり「説明不足による曖昧さ」に惑わされたり、もて囃すのは作品の評価ではないと感じます(難解なアニメなどで、この手の評価が蔓延するときがあります)。

想像の方向というのはミステリーでいえば、謎の方向です。
「誰がやったのか?」「凶器は何なのか?」などです(ワイダニットとか、フーダニットとかいいます)。

たまに、探偵が何を追っているのかよくわからない雰囲気ミステリーがあります。
「誰がやったのか?」を追っていて「Aではなくて、Bだった!」というのは読んでいて驚きますが、探偵が意味深なことばかり言って、何を追っているのかわからないまま、事件が解決しても、「はあ、解決したみたいだね」ぐらいにしか感じません。読者は探偵と一緒に謎解きを楽しみたいのです。

僕の私見ですが、明治ミルクさんの作品を改めて読むと、前者の作品では「どこなのか?」「誰なのか?」が状況の曖昧さを感じます。
描写が丁寧なので「暗幕を引いた」「薄暗い」部屋で「死人の顔」を描いていることがわかります。けれど「どこで」「誰なのか」わかりません。しまうまさんは「画家の狭い世界で……」と言っていたので、画家で、美術室のような場所と解釈したのでしょう。絵を描いているのはたしかですが、どうして「死人の顔」を?と新たな疑問は残ります。誰なのだろう? 「私だけが憶えている、特別なその瞬間を」という言葉から、知り合いのような印象があります。家族か? それだと「暗幕」というのが病院や自宅とは考えずらい もしかして殺した!? こんな風に考えるうちに、あれこれと可能性がでてきて、状況がわからないな……と思ってしまいました。

後者では「夜空に舞う蛍の緑」(蛍の光ではなくて蛍の緑と色で書かれているがいいですよね)と、「僕」と「あなた」という登場人物から夏の夜を連想します。日本の風物的な風景なので、言葉が少なくても連想ができます。「ねえ、見て」というセリフからは「あなた」は比喩的な何かではなくて人間であることもわかります。シーンとしてはわかるのですが「光」が何を指すのかは曖昧です。しまうまさんは「荒野」という言葉が蛍のいそうな水辺に合わないと言っていましたが、そうなると「この荒野」という言葉は心情的な比喩で、乾いた生きづらい現代などといった意味かもしれない。その中で見た「光」は?……と「テーマ」へと想像がかきたてられます。

前者の作品は想像力の方向が「場所、人物」の方に、後者の作品では、情緒や二人の過去の関係性や、それを思い出している今の僕などに誘導されました。
ミステリーやサスペンスであれば、前者のような「何が起きているんだろう?」という疑問は魅力につながります。つづきが読みたくなって、読者を引っ張る力になります。けれど前者の作品の、前半の描写はそのジャンルの書き方でありませんので、そういう狙いではないのだろうと思います。

僕がシナリオを書いていたせいか、場所や状況を特定するのはシーン以前(シナリオではシーン毎に柱として場所を指定する)と感じるので、説明不足のように感じてしまう部分もあるかもしれません。

いずれにせよ、確定は出きません。100文字では情報量が足りないからです。

(どの作品も)作者の方のお話は聞いてみたいとは思いますが、作者の考え=答えとも言いきれません。作品には作者の無意識も投影されることが多分にあるのですから(フロイトやユングを出すのはやめておきます)。

曖昧さの魅力は、短歌や100文字小説のような、短いゆえの楽しみだと思います。長い小説であれば10枚、20枚と進んでいくうちに、情報が確定されて、疑問は解消していくでしょう。曖昧さが残りつづけるのであれば、もはや詩でしょう。

良い意味での「想像の余地」が残るとき、余韻につながるのだと思います。

耳を傾けること

話が飛躍しぎてしまいましたので、まとめておきます。

・「わからない作品」には魅力もあるけれど、第一印象が悪いと読み直してもらえる可能性は低い。

・「わからない」にも種類がある。技術不足などからくるわからなさは、読み手の追及に耐えられない。

・巧みに想像力を誘導する「曖昧さ」は余韻につながる。

選考をする中で「読み込む」という作業を、とても鍛えられたと思います。

読むという行為は「作品」を通した「作者」との対話です。

相手に伝わるように「わかりやすく書く」というのは作者の責任だと思います。自分本位でわかりづらい文章は、高尚ではなく高慢なだけです。

けれど「わかりづらい作品」を、安易に切り捨ててしまうのは読み手側の怠慢でもあります。隠された魅力を見落としてしまう可能性もあります。

作者と読み手の両者が、分かり合おうと歩み寄るところに、物語の一つの意義があるように思います。

前回、街中で知らない人に声をかけられたときに喩えて、第一印象について考えました。それに則して「わからない作品」を読み込むことを考えるなら、しっかりと耳を傾けることだといえます。

街で呼び止められて、次のような話が始まったらどうでしょうか?

「あの……すみません。今日はいい天気ですね。僕、普段はあまり表に出ないんですけど、今日は思いきって出てきたんです。そうしたら、こんなに良い天気じゃないですか。楽しくなって、おいしいものでも食べようって思って、お昼はあそこのラーメン屋に入ってみたんです。有名なお店なんです。テレビでもやってて、いつも並んでるって聞いたんですけど、今日は空いててあまり並ばずに入れました……」

相手の話を遮って「すみません、用件は何ですか?」と聞きますか?

じっと本題が始まるまで耳を傾けますか?

あるいは「急いでるんで」と無視して立ち去るでしょうか?

立ち去るのは、わからないストレス状態から「逃げる」という対処です。世の中には、もちろんアブナイ人もいるので、逃げる方が賢明のときはたくさんあります。

しかし、小説を読んで危険な目にあうことありません。いえ、内容によっては精神的に苦しくなることはあるかもしれませんが、身体は安全です。

きちんと耳を傾けることで発見があるかもしれません。

あなたが、話しかけていた人の話をじっと聴いていたとします。

相手「……べらべらと勝手に話してすみませんでした。用件はないんです。呼び止めて、すみませんでした……」

話しかけてきた人が、そんな一言を残して立ち去ってしまう。

あなたの頭の中に「?」が浮かぶ。

「ん? 何だったんだろう? あの人は何を伝えたかったのだろう?」

その想像力は「他者を理解する」という方向に誘導されています。不思議な余韻が残りませんか?

次回は「作者の声を聴く」という観点をさらに掘り下げてみたいと思います。

緋片イルカ 2020/06/23

選考作業から学んだこと④「作者の声を聴く」

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