(※小説本文は下記にあります)
作:緋片イルカ(原案:志摩ウマ)
朗読:月城くう
mp3(14分19秒)
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『ぼくのお兄ちゃん』
ある日、ぼくにお兄ちゃんができた。
身長もおんなじ、髪型もおんなじ、左目の泣きぼくろまでおんなじで、鏡の中から出てきたみたいにそっくりだけど、ぼくのお兄ちゃんなんだって。
困ったときに助けてくれるお兄ちゃんがいたらいいのになあって、ぼく、ずっと思ってたから、お兄ちゃんが家に来てくれたときはすごくうれしかった。
だけどママはちがった。
あれはお兄ちゃんがきて最初の夕ごはんのとき。ママはぼくの前にだけごはん茶わんをおいて、食べなさいって言うんだ。
「ねえ、ママ、お兄ちゃんのお茶わんは?」
ってきいたら、
「ススム、あなた……何言ってるの?」
「お兄ちゃんだよ、ママ。お兄ちゃんのごはんもちゃんと用意してあげて」
「お兄ちゃんって……どこにいるの?」
「ここだよ。ぼくのとなりにいるでしょ」
「変なこと言わないで、ススム、あなたにお兄ちゃんなんかいないのよ?」
ぼくはとなりを向いた。お兄ちゃんはちゃんとそこにいた。ぼくの顔をみて、
「いいんだ、ススム。俺はお腹が空かないし気にしないで食べな。お前の好きなハンバーグだろ」
そう言って、お兄ちゃんは部屋から出ていった。さびしそうな背中。その日のハンバーグはゴムをかんでるみたいで、ぜんぜんおいしくなかった。
次の日も、その次の日も、お兄ちゃんはご飯になるといつもどこかへ消えてしまう。
ちゃんと食べてるのかな……。
朝の学校までの道のりはお兄ちゃんと話せる楽しい時間だった。
何でも知っていて、ぼくのこと、何でもわかってくれる優しいお兄ちゃんだった。
「今日の体育はプールなんだ」
いやだなあってかんじで、ぼくは言った。
「はは。お前、泳げないもんな」
「うん。男子でまだ二十五メートル泳げないの、ぼくだけなんだ。きっと、またケンちゃん達にからかわれるよ」
「安心しろ。今日は午後から雨が降ってきて、プールは中止になるから」
「ほんと? 天気予報じゃ晴れだったよ」
「それでも降るんだ。俺にはわかるんだ」
「そっかあ。お兄ちゃんの言うとおりになるといいな」
「なるさ。俺は何でも知ってるんだ」
お兄ちゃんの予言どおりだった。
四時間目までは真っ青に晴れてた空が、給食のときからくもってきて、食べおわったころには降り出していた。
先生はこの雨ならすぐに止むだろうって言ってたけど、プールは中止になった。
「雨でも泳げんじゃん、どうせ濡れるんだし」
楽しみにしてたケンちゃんがくやしがってたけど、喜んでる女子もいた。ぼくみたいに泳ぐのが苦手な子たち。ぼくもうれしかった。顔には出さなかったけどね。
これからもプールなんて毎回つぶれてくれたらいいのに。ぼく、泳げるようになんかならなくても、ぜんぜんかまわないから。
お兄ちゃんは算数の時間も助けてくれた。
「抜き打ちテストをやるぞ」
先生が言うと、ケンちゃんが手をあげて、
「テストやるなんてきいてません」
って言った。
「そうだ、だから抜き打ちのテストなんだ」
笑顔でテスト用紙を配りはじめる先生。
回ってきた問題を見たら、ぼく、もうムリだって絶望的な気分。
大きらいな分数の問題だった。ツウブンだとかヤクブンだとか、ブンブン言われても蜂が飛んでるみたいで目がまわる。
「テスト時間は今から十五分。早くおわった人は静かに待っててください」
先生は、みんなの机の間をゆっくり見回りはじめた。
ぼくは問題を考えるふりをした。
花子さんは全体二百八十ページの本の七分の二だけ読みました。何ページ読んだでしょうか。
ああ、もう、そんなの隅っこに書いてあるページ数を見ればわかるじゃないか。
てきとうに数字を書いて、消しゴムでごしごしやって、またてきとうに書く。
そんなことをしてたら、ぼくの前で先生の足がとまった。
やばい、と思ったら先生じゃなくてお兄ちゃんだった。先生はまだ教室の反対がわを歩いてる。
お兄ちゃんが怒られちゃうんじゃないかって焦ったけど、先生はなぜか、お兄ちゃんにぜんぜん気がつかない。クラスのみんなもテストに夢中で下を向いている。
お兄ちゃんは、机の上の問題をとんとんって叩いてから、指を四本立てた。両手で八本。
ピンときた。答えに80って書いて、お兄ちゃんの顔を見たらうなずいてくれた。
同じようにして他の答えも書いていった。
すべて埋まると、お兄ちゃんは指でOKの丸を作って教室から出ていった。
誰にもばれなかった。
次の日、テストが返された。満点だった。
初めて先生がほめてくれた。
すごいのはお兄ちゃんだけど、今までほめられたことなんてなかったから、ぼく、うれしくなっちゃった。
ケンちゃんがカンニングしただろって言いがかりをつけてきたけど知るもんか。
困ったときはいつでもお兄ちゃんが助けてくれる。お兄ちゃんがいれば、ぼくにはもうこわいものなんか何もないんだ。
「いいか、ススム。赤信号だけはぜったいに渡っちゃダメだ」
学校からの帰り道、お兄ちゃんが言った。
「わかってるよ。ぼく、もう五年生だよ」
「だけど、お前、車が来ないからってときどき信号無視するだろ」
「それぐらい誰でもやってるよ」
「みんながやっててもお前はダメだ」
「なんで」
「俺がダメって言ったらダメなんだ。ぜったいに赤信号は渡るんじゃないぞ。青になるまで待つんだ。いいな」
そのときのお兄ちゃんはパパがイライラしたときみたいに少し怖かった。
「わかった。これからは信号無視はしない」
「ぜったいだぞ?」
「うん、ぜったいに」
ぼくは約束した。
でも次の日にはそんなことすっかり忘れていた。
学校へ行く途中、いつもの交差点でぼくはトラックにはねられた。
死んだらしい。
「らしい」って言ったのは、ぼくは今、ちょっと離れたところから死んだぼくの様子を眺めてるからなんだ。
降りてきたトラックの運転手がうつぶせに倒れたぼくの体に声をかけている。近くを歩いてた人も集まってきて慌ててる。電話をしてる人もいる。救急車を呼んでるのかな。
声がきこえない。人の声だけじゃない。何にも音がしない。サイレントモードにしたテレビみたいに、みんな動いてるのに音がしないんだ。
ぼくはひと事みたいに眺めてた。
「だから言っただろ」
ふり返るとお兄ちゃんが立っていた。
「赤信号だけは渡っちゃダメだって」
「お兄ちゃんは、ぼくが事故にあうことも知ってたの? だから注意してくれたの?」
「もちろん知っていた。何回も見てるからな」
「何回も?」
「お前、あれが見えるか」
お兄ちゃんが指さした先には、白く輝く扉があった。道路の真ん中にぽつんと扉が一枚あって、中はまぶしすぎて見えない。家の玄関扉にそっくりだった。
「あそこから家に帰れる。ただし三ヶ月前の家に、俺みたいな透明な体で戻れるだけだ」
三ヶ月前、忘れもしない、お兄ちゃんがやってきた日だった。
「もうしかしてお兄ちゃんって……」
「俺はあの扉を何度も抜けた。兄のふりをして過去の自分にアドバイスをしてきた。俺はお前だ」
「お兄ちゃんは僕……」
「今までに八十八回、事故を避けようといろいろ試してみたが結果は同じ。細かいことは変わっても事故だけは避けられなかった」
ぼくは道路で倒れてるぼくを見た。
「死ぬ運命だったんだね……」
「まだ死んではいない」
「え?」
お兄ちゃんは、今度は地面を指さした。
そこにはフラフープぐらいの穴がぽっかりあいていた。ブラックホールみたいに真っ黒で中は見えなかった。
もっとのぞいてみたくて近づいた。
「吸い込まれるぞ」
ぼくはお兄ちゃんの声ではっとした。
「八十八人のお前は、みんなその穴に落ちた。残された俺は仕方なく扉を抜けて過去に戻ることを繰り返してきた。俺はもうつかれた。今回でおわりにする」
「穴に落ちるってこと?」
「お前はどうする?」
「どうするって言われても……」
ぼくは白い扉と黒い穴を見た。
「どうしていいかわらないよ」
「お前が決めることだ」
「教えてよ。困ったときは、お兄ちゃん、いつも助けてくれたでしょ」
「それは事故までを知っていたからできたこと。この先、どうなるかは俺にもわからない」
そのとき救急車がやってきた。サイレンの音は聞こえなかった。
ぼくの体を病院に運ぶためにやってきたんだ。
「体には戻れないの?」
「体って、あの事故に遭った体にか?」
「まだ死んでないんでしょ?」
「だけどそんな道、選んだやついない。あんな体じゃ辛いだけだぞ。俺はもう助けてやれないし、一人で生きていかなきゃいけないんだぞ」
「わかってる。だけど、ぼく……もう少し生きてみたい」
「バカなことを……」
救急隊員の人たちがぼくの体を担架にのせている。
「うん、決めた。ぼく生きてみる。お兄ちゃん、今まで助けてくれてありがとう。八百八十八回も助けてくれてたんだよね」
「お前……」
「これからは、ぼく、一人でがんばるから。泳げるようにもなるし、算数もがんばるから」
体は救急車に乗せられるところだった。
ぼくは走りだした。
「待てっ! 行くな!」
お兄ちゃんの声が聞こえたけど、ふり返らずに走った。
呼吸が苦しい。足が重い。それでもぼくは走った。
こんなに本気で走るのは生まれて初めてだった。
「生きるなんてつらいだけだぞ!」
お兄ちゃんの声がする。
(さよなら、お兄ちゃん)
お兄ちゃんに永遠の別れをつげて、ぼくは、ぼくの体に飛び込んだ。
(了)
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