大は小を兼ねる(リレーエッセイ9)

 先日、視覚障害者の介助をした。

 経緯はこうだ。横浜駅の西口をぶらぶら歩いていると「すみませーん、すみませーん!!!」と叫ぶ男性の声が聞こえた。「叫び」と言っていい大声だった。声の主を探すと白い杖を持ったやや大柄な中年男性が点字ブロックの上で立ち止まったまま、なおも叫び続けていた。叫んではいたけど、なぜか不思議と切迫感のある声ではなかった。

 私の前を歩いていた何人かは彼に話しかけるでもなく、一人、二人と横を素通りしていく。その間も彼は「すみませーん!」と叫び続ける。そしてあっという間に私の番が来た。こうやってインターネットに晒される文章で取り上げているくらいなので、私は「どうされましたか?」と声を掛けた。単に、順番が来たからそうしただけなんだと思う。

 聞くと「バス乗り場に行く方法が分からない」のだと、気持ち小さめな大声で教えてくれた。彼が立ち止まっていたのは点字ブロックがT字の形になって途切れている地点で、そのすぐ横にはバス乗り場のある地下へと続く階段があった。私は彼を誘導してたった二、三歩進み、彼が階段の一段目に足を掛けたところで「階段なら一人で降りられる」と申告があった。私はここでお役御免になった。

 私は駅前の点字ブロックの配置を改善すべきだとか、素通りした数人はけしからんとか、バリアフリーでインクルーシブな社会を目指すべきだとか殊勝な申し立てをしたいのではない。率直に思ってしまったのは「もう少し小さい声の方が助かる」ということなのである。先に私の前を歩いていたのが女性ばかりだったというのもあって、大声を張り上げる大柄な中年男性に話しかけるのを躊躇してしまったというのも、ちょっと分かる。正直なところ私も自分の順番が来た時、バツの悪い顔をした。

 しかし彼にとっては知ったことではない。すぐ近くに人がいるかどうかが分からないのだから、横浜駅だろうと閑古鳥の鳴いている無人駅だろうと、同じように助けを求めるほかない。そんな彼なりの処世術があの叫びだと想像した。ちょうど良い大きさの声で助けを求めよという方がナンセンスなのである。実際彼は、バス乗り場へと辿り着いた。大は小を兼ねるのである。

 実際自分自身を顧みても、「大は小を兼ねるの精神」から学ぶことは意外と多いんじゃなかろうか。洋服だったり弁当箱だったりを選ぶ時なら別だけど、人生における無数の大か小かを選択する場面で、絶対に「大」を選んだ方が良い結果が訪れる時というものは往々にしてある。

 例えば、テスト勉強でヤマを貼るか、ちゃんと授業に出ている友人に連絡して出そうなところを聞いた上で重箱の隅をつつく様な問題まで対策するか。電車に間に合うかどうかギリギリに家を出てしまった時、歩くか走るか。「多分こいつ、分かってないだろうなあ」という仕事相手とのコミュニケーションをメール一本で済ませるか、しっかり伝わるまで丁寧に口頭で補足するか。謝意を伝えなければいけない場面で、髪は黒く染めて土産の羊羹は虎屋にするか。デートの前日には美容室に行き、一張羅にアイロンを掛けておくか。

 そういう時、なんとなく「大」を選ぶことの労を惜しんだり、あるいは「ちょうど良い大きさ」を選ぶ方がスマートに思えたりして、最初から積極的に「大」を選ぶことってあんまりないような気がする。実際、それでも意外と上手くいってしまったりする。よくない成功体験が、どんどん私を「小」へと向かわせる。

 しかし、彼にはそんな小賢しさは関係ない。どんな時でも、「すみませーん!」と大声で叫び、ついには目的地へと辿り着く。この逞しさこそが、大は小を兼ねるの精神なのである。

さいの 2026.5.15

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