生きることとしてのダイアローグ: バフチン対話思想のエッセンス
二〇世紀ロシアの思想家ミハイル・バフチンによる〈対話〉の思想が、近年、教育や精神医療の現場で注目されている。単なる話し合いではない、人を決めつけない、つねに未完成の関係性にひらかれた対話とは何か。「複数の対等な意識」「心に染み入る言葉」など、バフチン自身のテクストを紹介しながら、ポイントをわかりやすく解説する。(Amazon商品解説より)
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Ⅲ 相互作用のなかのことば
第三部から、気になったバフチンの言葉を中心に引用していく。
二人が部屋にいる。黙りこくっている。ひとりが話す、「tak!」(ターク)と。もうひとりはなにも答えない[この場合のtakは英語のwellに近い]。
話の最中に部屋にいないわれわれにとっては、この「会話」はまったく理解できない。それだけを孤立させてとらえた発話[tak]は空虚であり、まったく意味がない。だがにもかかわらず[…]わずか一語からなる、二人のこの独特なやりとりは、十分に意味に満ちており、十分に完結している。
このやりとりの意味をあきらかにするには、これを分析する必要がある。だがじっさい、われわれはこの場合なにを分析に付することができるのであろうか。発話の純粋に言語的な部分にいかにかかりきりになろうとも、また[tak]という言葉の音声学的契機、形態論的契機、意味論的契機をいかに繊細に定義づけようとも、やりとりの総体意味の理解には一歩たりとも近づきはしないであろう。
この言葉が発せられたときの――憤然として非難しているものの一種のユーモアでやわらげられている――イントネーションもわかっていると仮定しよう。このことは、副詞[tak]の意味の空白をいくらかおぎなってくれるが、それでもやはり全体の意味はあきらかにしてくれない。
いったいなにが不足しているのであろうか。それは[tak」という言葉が聴き手にとって意味をもってひびいていた[言外のコンテクスト]である。(p.124)
言外のコンテクストについては以下の三つがあるそう。
1:話し手どうしに共通する空間的視野
2:状況に関する、双方に共通する知識や理解
3:この状況にたいする、双方に共通する評価
会話をしている自分たちが「いつ」「どこ」「何をしているか」それらに対して「どう思っているか」という共通認識といったところ。
これに加えて空間的、時間的に拡縮することによって、
4:社会的・歴史的コンテクスト
が、加わる。著者によると「家族、民族、階級や、日々、数年、幾時代〈言外に示されているもの〉にもなりうる(p.127)」とのこと
これは創作におけるキャラクターのサブテクストに通じる。
脚本で例を書いてみると、
○コンビニエンスストア・店内(夜)
店員が商品の補充をしている。
これだけで
「いつ」=夜
「どこ」=コンビニ
「商品の補充」=コンビニの仕事中
が定まる。
小説ではこういった最低限の時空のセットアップを、気付かずに疎かにしている作家もいるが、脚本では柱があるので強制的にセットアップさせられる。
しかし、これだけでは、コンビニ店員が「どう思っているか」はわからない。
続けてみると、
○コンビニエンスストア・店内(夜)
店員が商品の補充をしている。
客「おい、タバコ」
客がレジに立っている。
店員「はい、ありがとうございます」
店員、レジに戻る。
客は明らかに不遜な態度を表明している。
それに対して店員は言葉の上では丁寧に対応している。
だからといって、この店員が心の内では「どう思っているか」はわからない。
そんなことは多くの観客は言わずとも察してくれる。
稚拙な書き手は、ここで客が帰ったあとに、店員同志に「なんだよ、アイツ!」なんてグチを吐くシーンを入れて、説明したがる。
説明ゼリフは、観客の感性を信用していないとも言える。
バフチンのいう「言外のコンテクスト」、僕は「サブテクスト」という言葉のが馴染みがあって、同一のものだと感じるが、いずれにせよ、物語の「描写」における、基本にして最大の技術だと思う。
これがわかるか、そして描けるかは多分にセンスに依存する気がする。
表情表現イントネーションは、個人的であり、完全に自由である。たとえば「かれは死んだ」という発話は、具体的な状況や話し手の個性(話し手の個人的企図)しだいで、悲劇的トーン、抑鬱的なてーん、冷淡なトーン、喜ばしいトーン、歓喜のトーなどで発せられうるし、感情の乱れを(暗くも、悲しくも)表現することもある。(p.128)
さきの脚本でコンビニ店員の「はい、ありがとうございます」というセリフを、元気よく模範店員らしく言うことと、気怠そうに言うことでは、意味合いが大きく変わる。
これは演技の領域にも近いが、どういう態度で演じるべきかは、脚本に書かれていなくてはならない。
いちいち、
店員「(面倒くさそうに)はい、ありがとうございます」
と「指示書き」を加えてやるべきときもあるが、そのキャラクターの他のシーンとの比較、物語全体での性格を読み取れば、どう演じるべきかは自ずとわかるように書くべきである。
そこを描き切れるかどうかは、書き手がキャラクターアークを理解しているかどうかになるし、
キャラクターアークを読み取れるかどうかは、小説でいう読者、映画でいう役者や演出家のリテラシーによる。
個人的意見でいえば、脚本に関しては、役者のレベルに合わせて書き分けてやるのがベストかと思う。
経験の浅い役者や、リテラシーの低い役者が演者であれば、バカ丁寧に書き加えてやることで演出をコントロールできる。
反対に、信用できる演者であれば「指示書き」が演技の幅を制限してしまうことがある(指示書きを自らの判断で取捨できる役者はいる)。
いずれにせよ演出家のリテラシーが高く、器用に演出を分けることができることが望ましい。
脚本における役者との関係だが、小説では演出も演者もすべてコントロールしなければならない。
発話は、言語的交通の先行の環だけでなく、後続の環ともむすびついている。発話が話し手によってつくられるときには、もちろん後続の環はまだ存在していない。けれども発話は、最初から、予想される返しの反応を考慮してつくられるものであって、じっさいには、まさにそうした反応のためにつくられているのである。[…]話し手は最初から、他者の応答を、能動的な応答的理解を期待している。(p.132)
環というのが少しわかりづらく、その説明はなかったが「会話のサイクル」としての環と受けとった。
自分が「発話」するときには、他者の応答を期待(あるいは予想)している。
目の前に相手がいず、思考しているときも、あるいは神のような存在と対話しているときにでも。
われわれの発話の表情表現は、その発話の対象にかんする意味内容によってでなく――ときにはそれよりもむしろ――おなじテーマをめぐる他者の発話によっても決定されることがきわめておおい。それらの発話にわれわれは返答したり、それらの発話と論争する。それらの発話ゆえに、個々の要素を強調したり、くりかえしたり、より辛辣な(あるいは逆に、よりおだやかな)表現を選択したり、挑戦的な(あるいは逆に、譲歩する)トーンをえらんだりする。発話の表情表現は、発話の対象にかんする意味内容のみを考慮していては、完全に理解したり説明することはけっしてできない。発話の表情表現は、程度の差はあれ、つねに応答なのである。つまり、他者の発話にたいする話者の態度をあらわしているわけであり、自分の発話の対象にたいする話者の態度のみをあらわしているのではない。(p.134)
「セリフ」のテクストよりも、サブテクストを書くことこそ、会話シーンを描くこと。
「引用」も対話であるという視点から、
この関係は、対話のやりとりの関係に似ている(もちろん、おなじというわけではない)。他者のことばを隔離するイントネーション(書きことばならば引用符で示されるそれ)は、独特な現象である。それはいわば、発話の内部に移された、ことばの主体の交替である。この交替がつくりだす境界は、このばあい、弱まっており、特殊である。話し手の表情表現は、この境界をつらぬきとおして、他者のことばにまでおよんでおり、他者のことばをわたしたちは、イロニー、憤慨、同情、敬虔などのトーンで伝えることができる(この表情表現は、表情ゆたかなイントネーションのおかげで伝わるのである。書きことばのばあい、われわれはそれを他者のことばを囲んでいるコンテクスト、あるいは言外の状況によってただしく推察し感知する)。(p.135)
他者のことばの一つは物語ではセリフである。
それを「言外の状況」によって、表情表現によって、伝えることができる。重要。
強調しておかなければならないのは、(話しことばおよび書き)ことばのジャンルが極端に多種にわたっていることである。じっさい、ことばのジャンルには以下のものもふくめなければならない。日常生活の対話の簡単なことばのやりとりも(おまけに、対話の種類は、会話のテーマ、状況、参加者の構成いかんで、はなはだ多様なものとなる)、日常生活のなかでの叙述も、(多様な)手紙も、簡潔で紋切り型の軍隊の号令も、長めで詳細な指令も、実務文書のかなり雑多なレパートリー(その大半が紋切り型)も、ジャナーリズムの評論(広義での社長評論、政治評論)の多様な世界も。さらには、学術的表現の多様な形式も、(諺にはじまって何巻もある小説までの)あらゆる文学ジャンルも、ふくめなければならない(p.138)
ことばのジャンルという概念は「脳内辞書」を思い出す。
人もキャラクターも、自分の中にいくつかの「ジャンル」の辞書を持っている。
辞書の種類が噛み合わない人との会話は困難になる。言葉が通じない。
単一言語というカテゴリーは、言語の統一化と中心化の歴史的過程を理論的に表現したものであり、言語の求心的諸力の表現である。単一言語とは、もともとあるものではなく、じっさいには、つねに課せられた[考えだされた]ものであり、言語生活のあらゆる瞬間において現実の異言語混淆に対立している。しかし同時に、単一言語は、この異言語混淆を克服し、それにたいして一定の限界を設定し、相互理解のマキシマムのようなものを保障し、支配的な(日常的)口語と標準語〈正しい言語〉からなる相対的ではあるが現実の統一体のなかで結晶している力として、現実的なものである(p.146)
支配階級は、イデオロギー的記号に超階級的な永遠の性格を添え、そのなかでおこなわれているもろもろの社会的評価の闘争を沈め、内部に追いやり、記号を単一アクセントのものにしようとする。
実際には、あらゆる生きたイデオロギー的記号は、[ローマ神話の]ヤヌスのようにふたつの顔をもっている。ひろくもちいられているどんな罵言も賞賛の言葉となりうるし、通用しているどんな真理も他のおおくの人びとにとっては不可避的にたいへんな虚言にひびくにちがいない。記号内部のこの弁証法的性質は、社会的危機や革命的変動の時代にのみ徹底的にあばかれる。社会生活のふだんの状態のもとでは、各イデオロギー的記号につめられた矛盾は、完全にはあきらかにされえない。というのも、確立し支配的となっているイデオロギーのなかでは、イデオロギー的記号はつねにいくらか反動的なものであり、いわば、社会生成の弁証法的流れにおける先行する契機を安定化させ、昨日の真実を今日の真実のごとくにアクセントづけようと図るからである(p.148)
「支配階級によるイデオロギー的記号」、言語統制。
それよりも恐ろしいのは、内的対話が単一的に凝り固まることではないか。洗脳状態に等しい。
対話について述べてきたバフチンが沈黙について述べているのは面白い。
沈黙(声にださない状態)のさまざまな形式。奴隷や召使いの義務としての沈黙。沈黙的従属、軍人の沈黙的従属。本人の意思の欠如や上司の意思への全面的従属としての沈黙。これらのばあい会話の可能性が排除されている。
用心深い沈黙や、自分の見解をのべたり自分の見解をのべたり自分の内面生活を語ることへのおそれ。沈黙は、ひとが隠れる仮面となっている。
これらと区別すべきは、沈黙的思考の沈黙、優越感の表現のような黙せる偉人の沈黙。沈黙は、自信をもち、ほかのものたちとの会話による点検や支えを必要としない、集中した内的思考の働きの表現ともなりうる。召使いの沈黙ではなく主の沈黙。大衆のおしゃべりに対置する高貴なるものの沈黙。
理解の通常の軌道からはじきだされたと感じたときの驚きや予想外からくる沈黙。誇りや軽蔑の沈黙。(p.150)
静寂と音。(静寂を背景としての)音の近く。静寂と沈黙(音の欠如)。間と言葉の始まり。音でもって静寂を破ることは、(知覚の条件として)機械的で生理的である。これにたいし、言葉でもって沈黙を破ることは、人格的で有意味的である。これはまったくべつの世界なのである。静寂においてはなにひとつひびかない(あるいはなにかがひびかない)が、沈黙においてはだれひとり話していない(あるいはだれかが話していない)。沈黙は、人間世界においてのみ(そして人間にとってのみ)可能なのである。(p.151)
(聞かされたこと、たとえば号令にたいする)能動的・応答的な理解は、行動(理解し遂行を受け入れた命令や号令の実行)となってじかに実現されることもあれば、沈黙の応答的理解のままにしばしとどまることもある。[…]けれどもこれは、いわば、遅延した行動による応答的理解である。聞かれ、能動的に理解されたことは、聴き手のそのあとのことばやふるまいのなかに、おそかれはやかれ応答を見いだすのである。(p.152)
あらゆる発話は、(さまざまな性格、さまざまな近さ・具体性・自覚度等々の)受け手をもつねにもっており、その応答的理解を言語作品の作者はさがしもとめ、予見している。これは〈第二者〉である。[…]しかしこの受け手(〈第二者〉)のほかに、発話の作者は、自覚の程度はさまざまであれ、高次の〈超・受け手〉(〈第三者〉)を前提としており、その絶対的に公正な応答的理解が形而上学的なかなたや遠い歴史上の時間のなかに前提とされている(逃げ道としての受け手)。時代や世界観しだいで、この超・受け手はさまざまに具体的にイデオロギー的に表現される(神、絶対的真理、公平な人間的良心の裁き、民衆、歴史の裁判、科学、その他)。[…]どんな対話も、対話の参加者(パートナー)の上方にいる不可視の〈第三者〉の応答的理解を背景としているかのようにおこなわれる。(p.156)
深い。
さいごに「おわりに」にあった言葉が素敵だった。
世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、世界の最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られていない。世界は開かれていて自由であり、一切はまだ前方にあり、かつまたつねに前方にあるであろう。(p.162)
緋片イルカ 2022/01/25