書籍『生きることとしてのダイアローグ』②内なる対話:外在性と闘争

生きることとしてのダイアローグ: バフチン対話思想のエッセンス

二〇世紀ロシアの思想家ミハイル・バフチンによる〈対話〉の思想が、近年、教育や精神医療の現場で注目されている。単なる話し合いではない、人を決めつけない、つねに未完成の関係性にひらかれた対話とは何か。「複数の対等な意識」「心に染み入る言葉」など、バフチン自身のテクストを紹介しながら、ポイントをわかりやすく解説する。(Amazon商品解説より)

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Ⅱ 内なる対話

前回同様、バフチンの言葉を中心に、気になったものを引用していく(以下同)。

ひとつの意識というのは、形容矛盾である。意識は本質的に複数からなるのである。意識には複数形しかない。(p.69)

外にいる他者との関係(交通)において、意識というものがある。
思考をしているときなどには「内なる他者」と対話している。
無意識や潜在意識といった領域とのやりとりもある。

他者の言葉との相互作用を、精神分析や〈集合的無意識〉によって理解しようという試み。心理学者(ことに精神科医)が解明しているものは、かつて存在していたものであり、それは(集合的無意識であろうと)無意識のなかに保持されているのではなく、言語、ジャンル[文学や文化の諸形式]、儀礼などの記憶のなかに固定されている(p.76)

精神医学に否定的だったそうだが、フロイトのやり方はまさに患者を客体化することだから。医学も身体を客体化している。
「集合的無意識」については扱いがむずかしい。そういったものの存在は感じるが、それが人類に共通する無意識とは僕はみなせない。
バフチンのいうように文化に根ざしたものと考える方が自然だとは思う。けれど、それだけでは説明しきれないものを、切り捨ててしまう危険もある。つまりは心理学を客体化することにい陥ってしまう。

次はオープンダイアローグの先駆者であるヤーコ・セイラックの言葉と、それに続く著者による補足。
オープンダイアローグについては、また別の本も読んでいく予定だが、ここでのポイントは参考になった。
〈不確実性への耐性〉
〈対話主義〉
〈社会ネットワークのポリフォニー〉
〈未完結〉
〈異言語混淆〉
〈社会的言語〉

バフチン[…]は、〈対話〉は意識と意識のコミュニケーションそのものであり、個人の内にあるプロセスではないと考えた。この意識間のコミュニケーションが生まれるかどうかは、話し手が聴いてもらえて、受け入れられていると感じられるかどうかにかかっている。話し手が「聴かれている」と感じるには、応答されなければならない。バフチンが言ったように、人間にとっては応答がないままおかれることほど恐ろしいことはないのである。
 互いに響きあう対話によって事態を分かちあおうとすることは、治療とコンサルテーションの基本となる。(p.78)

 さらにバフチンとの関係でいえば、この治療が〈不確実性への耐性〉、〈対話主義〉(有意義な対話を生成していくためにも、治療チームは患者や他のメンバーの発言すべてに応答しなければなりません)、〈社会ネットワークのポリフォニー〉(精神分析がそうであるように「秘められた真実を暴く」ことを目的としません。ただひとつの真実よりも、多様な表現を生成することを重視するからです)などを特徴としていることもあげられます。
 また、オープンダイアローグでは、「精神病が具体的な対人関係のあり方の問題であること、普通のコミュニケーションの世界から疎外され孤立した状態こそが問題であることが主張されている」という点や、セイラックが、ミーティングのメンバー間にあらたな意味が生まれる〈対話性〉、患者もふくめた全員の対等な〈ポリフォニー〉にとどまらず、〈未完結〉、後述の〈異言語混淆〉や〈社会的言語〉なども考慮に入れていることは、大いに注目に値します。(p.79)

プラトンの著作は、初期と中期・後期では違いがあるらしい。

哲学者の藤沢令夫の指摘が引用されている。
中期・後期では「相手の見解を問答の積み重ねにより吟味し論駁してアポリアー(行詰り)に導くことよりも、自分から積極的に一定の見解を提示することが多いという点――アポリアー的であるよりも、教説提示的(ドグマティック)な性格が強くなっている点――である」

ポリフォニーだったものが、モノローグになってしまっているということ。
また、ソクラテスの対話はカーニバル的あるとも。
以下はバフチンの言葉。

この点において〈ソクラテスの対話〉は、完全に修辞学的な対話とも、悲劇の対話とも異なっている[…]。思考や真理が本質的に対話的であることをソクラテスが発見したというまさにそのことが、対話にくわわった人びとのあいだの関係のカーニヴァル的な無遠慮さや、人びとのあいだのあらゆる距離の撤廃を前提にしているのである。さらには、いかにそれが高尚かつ重要なものであれ思考の対象そのものへの、そして真理そのものへの関係の無遠慮さを前提としているのである。プラトンの対話のなかには、カーニヴァル的な戴冠と奪冠を下敷きにつくられているものがある〈ソクラテスの対話〉に特徴的なのは、思考や形象の無軌道でちぐはぐな組み合わせである。〈ソクラテスのイロニー〉とは、希釈されたカーニヴァルの笑いなのである。(p.86)

「支配者がとりおこなう祝祭」:「既成の勝利し支配的になっている真実、永劫不変で反駁の余地なきものとして立ちあらわれた真実を祝賀するものであった」
「民衆が広場でくりひろげるカーニヴァル」:「支配的な真実、現在体制からのいわば一時的な解放を祝した」(p.86)

「権威的な言葉」:宗教、政治、道徳上の言葉、父親や大人や教師の言葉。無条件の承認と受容を要求する(p.90)。「その意味の構造は完結しており一義的あるがゆえに、不動であり死んで」いる(p.91)
「内的に説得力のある言葉」:以下の引用

内的に説得力のある言葉は、それが肯定的に摂取される過程において、〈自己の言葉〉と緊密にからみあう。われわれの日常的な意識のなかでは、内的に説得力のある言葉とは、なかば自己の、なかば他者の言葉である。内的に説得力のある言葉がもつ創造的な生産性は、それが自立した思考と自立したあたらしい言葉を呼び起こし、内部からおおくのわれわれの言葉を噪きするものであって、孤立した不動の状態にとどまるものではないという点にこそある(p.91)

「なかば自己の、なかば他者の言葉」
思考という内的対話。
内的対話をせず、権威的な言葉によりかかってしまうこと。

内的に説得力のある言葉は、他の内的に説得力のある言葉と緊張した相互作用を開始し、闘争関係にはいる。イデオロギー面でわれわれを生成させる過程は、さまざまな言語的・イデオロギー的な視点、アプローチ、傾向、評価などが支配権をもとめて、われわれの内部でくりひろげるこのような緊張した闘争なのである。内的に説得力のある言葉はの意味構造は、完結したものではなく、開かれたものである。内的に説得力のある言葉は、自己を対話化するあたらしいコンテクストのなかにおかれるたびに、あたらしい意味の可能性をあますところなく開示する力を有している。(p.92)

バフチンは「複製」「コピー」「模倣」に否定的。内的対話ではなく、「闘争」はなく、新しいものを生まない。

他者の文化をよりよく理解するためにはいわばその文化のなかに移り住み、世界を他者の文化の眼でながめる必要があるといった、きわめて根強いものの一面的で、それゆえにまちがっている考え方が存在している。[…]もちろん、他者の文化のなかへ生をある程度移入すること、世界を他者の眼でながめっられることは、理解の過程で不可欠な契機である。だが、もしも理解がこうした契機に尽きるならば、それはたんなるものまねとなり、あたらしいものや豊かにしうるものをなにひとつもたらすことはないだろう。(p.96)

創造的理解というものは、自分自身や、時間上の自分の場、自分の文化を放棄せず、なにひとつ忘れはしない。理解にとってきわめて重要なのは、理解者が、自分が創造的に理解しようと望んでいることにたいして――時間、空間、文化において――外部に位置していることである。(p.96)

自分自身の外貌ですら本人は真に眼にし全体を意味づけることはできないのであり、いかなる鏡も写真も役立たないのである。その者の真の外貌を眼にして理解できるのはほかの人びとだけであり、それはその人びとが空間的に外に位置しているおかげであり、かれらが他者であるおかげなのである。(p.97)

人間と人間の関係は、文化と文化にもいえる。

文化の領域のおいては外在性こそが、理解のもっとも強力な梃子(てこ)なのである。他者の文化は、もうひとつの文化の眼にとらえられてはじめて、みずからをいっそう十全にかつ深くあきらかにする(ただし、全面的にというわけではない。というのも、他の諸文化もあらわれ、それらがさらにあらたに眼にし理解するからである)。ひとつの意味は、もうひとつの〈他者の〉意味と出会い、接触することにより、みずからの深層をあきらかにする。両者のあいだにはいわば対話がはじまり、この対話がこれらの意味や文化の閉鎖性や一面性を克服するのである。わたしたいは、他者の文化にたいして、それ自身はみずからに提起しなかったようなあらたな問いを提起したり、そこにこうしたわたしたちの問いにたいする答えを求めるのであり、他者の文化はわたしたちに答え、わたしたちのまえにみずからのあらたな側面、あらたな意味の深層をうち開く。[…]ふたつの文化のこのような対話的出会いのさいには、それらは融合することも混じりあることもなく、それぞれがみずからの統一性と開かれた全一性を保っているが、両者はたがいに豊饒化するのである(p.98)

ただひとりの参加者のもとでは、美的な出来事はありえない。[…]美的な出来事は、二人の参加者があってはじめて実現するのであり、ふたつの一致することのない意識が前提となる。(p.99)

他者との対話関係には「闘争」を含んでいる。
ただ相手の言うことを鵜呑みにしたり、従うことでは対話にならない。
芸術もしかり。
ただの妄信的なファンは芸術を真に理解していない。

ひとつの意識だけの平面上では展開するのが原理的に不可能であり、融合しないふたつの意識を前提としている出来事、ある意識がもうひとつの意識にまさしく他者として関係することを本質的な構成契機とする出来事がある。あたらしきものをもたらす、唯一で不可逆的な創造的出来事とは、すべてこのようなものである。(p.100)

他者であることは「余剰を有していること」でもある。
小説における作者の視点となる。

作者の視野――つまり登場人物の各自の視野や登場人物たち全員の視野とは対照的に、作者が知り、理解し、眼にしているもの――の一定の客観的余剰を保証する外在性。まさにこの余剰ゆえに、作品や登場人物各自のモノローグ的完結が生じるのである。(p.102)

モノローグ的完結と、ポリフォニーのちがい。これについては改めて『ドストエフスキーの創作の問題』を読んで深めようと思う。

資本主義は、特殊な型の出口のない孤独な意識のための条件をつくりだした。ドストエフスキーは、悪循環をつづけるこの意識の欺瞞性を徹底してあばきだしている。
 階級社会における人間の苦悩、屈辱、未承認状態を描いているのは、そのためなのである。階級社会の人間は、承認をうばわれ、名をうばわれている。この人間は、しいられた孤独のなかに追いやられているが、不従順な者はそれを誇らしい孤独へと変える(承認や他者なしですます)ことをめざす。(p.110)

わたしは他者なしですますことはできないし、他者なしで自分自身になることはできない。わたしは他者のなかに自分自身を見いだし、自分自身のなかに他者を見いださねばならないのである(相互反映、相互浸透)。正当化は自己正当化となることはありえず、承認は自己承認となることはありえない。わたしの名をわたしが受けとるのは他者たちからであり、わたしの名は他者たちのためにある(みずから名づけるのは僭称)。自分自身にたいする愛も、ありえない。(p.112)

内的なものすべては自己充足してはおらず、外に向けられており、対話化されている。内的体験のそれぞれが境界上にあって、べつの体験と出会っており、こうした張りつめた出会いのなかにこそ、内的体験の本質はある。これは、(外的でも、モノ的でもない、内的な)最高次の社会性である。(p.113)

小説の発展とは、対話性の深化、対話性の拡大と洗練にある。対話に引きこまれない中性的で確固たる(「石のごとき真実」)要素は、どんどん減少していく。対話は分子の深み、さらには原子内の深みへとはいりこんでいく。(p.114)

小説における愚かさ(無理解)は、つねに論争的である。それは、知恵(いつわりの高尚な知恵)と対話的に相関しており、知恵と論争し、知恵をあばく。愚かさは、[悪漢の]陽気な欺瞞や他のすべての小説的カテゴリーとおなじように、小説の言葉の特殊な対話性から発する対話的なカテゴリーである。それゆえ、小説における愚かさ(無理解)は、つねに言語や言葉に関係している。すなわち、その基礎には、他者の言葉にたいする論争的無理解、世界を意のままにし世界を意味づけようとしている他者のパセティックな嘘にたいする論争的無理解、事物や出来事に高尚な名を付している公認の規範化された偽りまみれの言語――詩的言語、学者の衒学的な言語、宗教言語、政治言語、法律言語、その他――にたいする論争的無理解が、つねにある。(p.116)

これはトリックスターの意義につながる。

[愚者や道化という仮面をつけることにより]生活を理解せず、もつれさせ、からかい、誇張する権利を得る。パロディ化して語ったり、文字どおりではなかったり、自分自身ではなかったりする権利[…]、ほかの者たちから仮面をはがす権利、本質を衝いた(礼拝じみた)罵詈雑言をあびせる権利[…]を得るのである。(p.117)

引用のため、模写してみると、読んだだけではわからなかった部分が響いてきて、よくわかるようになる。
第三部については改めて。

緋片イルカ 2022/01/20

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