「徒花」読めますか?(ゲス漢15)

※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。

「で、いくら欲しいんだ?」
 俺は美穂の話を遮って(さえぎって)言い放った。
「お金とか、そういうことじゃないんです……」
 髪をかき上げて窓の外を見つめた美穂の横顔は、午後の陽射しに照らされてフェルメールの女みたいに輝いた。すっぴんで頬の和毛が光を反射して、ベッドとはまた別の女に見える。
「下衆山さんに離婚してくださいなんて言うつもりはないんです」
「じゃあ、なにが希望だ?」
「ただ、愛してほしかったんです。ちょっとだけでもいいから、奥さんに向けてる愛情のほんの1%でも、わたしのこと愛してほしかった……」
 アラフォー女には気をつけろ、というのはある知人の忠告だった。
 一晩だけのつもりが何度も関係を迫られて、はじめの2、3回は応じていたものの、あまりにしつこいので堪えきれなくなって別れを告げると慰謝料を請求されたという。不倫なのだから本来は訴えられる立場のくせに、図々しく求めてきたのだという。外科医だったら彼はあっさりと支払って片づけた。妻にバレることを考えれば安い額だと言っていた。
「今日、下衆山さんの奥さんを見ました」
 美穂からのメッセージが届いたとき、金が目当てなのだと思った。相手はよく選んでいるつもりだったので、こういうトラブルは初めてだった。
 彼女の求める金額を聞いて三倍払ってやるつもりでいた。
 アイスコーヒーのストローを回した。氷がカランとグラスにぶつかる。11月というのに暑いのは、暖房のせいだけではないらしい。
「つまり……家が欲しいってことか?」
 さすがに俺でも軽く出せる金額ではない。
「家か……」
 窓の外を家族連れが歩いて行く。ベビーカーを押す母親と、息子をおんぶした父親。俺にもあんな時代があった。
「家庭まではのぞみません……子どもとか苦手ですしね。そういうタイプの人間じゃないんです。女として不能というか、ただ……」
 美穂はこちらをちらっと見てから、また伏せた。
「下衆山さんが、帰ってくるのを部屋で待ってみたかったです。わたしはカレーをつくって、下衆山さんの帰りを待つんです。玄関が開いたら『おかえりなさい』って。そういうのを一回やってみたかったんです……」
 彼女の気持ちは徒花だ。
 もし今の俺に家族がなくて、愛人もなく、彼女たちを養うだけの経済力もなくて、仕事も冴えない小さな工場かなにかで、一日中、汗水垂らして働いて、疲れきった体を引きずって帰ってきた家で、美穂が出迎えてくれたなら、俺は幸せを感じるのかもしれない。愛して結婚するだろう。美穂は子供はいらないと言っていても、一緒に暮らしているうちに気が変わるかもしれない。妊娠した彼女を俺は必要以上に気遣って、出産日には気が気でなくて待合室をうろうろし、生まれてきたばかりの子供を前に涙を流すかもしれない……。
「ありがとうございます」
 美穂の言葉で、我に返った。彼女は俺のこころの中を見透かしたように言った。
「いま、一瞬だけ想像してくれましたよね。わたしとの未来。それだけでわたしは幸せです」
 立ちあがって伝票をとる美穂の手を、俺は止めたが、
「今日だけは払わせてください。今までありがとうございました。二度と、あなたの前にも、もちろん奥さんの前にも現れません。お幸せに」
 去って行く彼女の後ろ姿を見ながら、何かしてやれることはないかと考えた。お金ならあって困ることはないだろうと思った。そうだ、医師が払った3倍の額を払ってやろう。
 そう思ってから、彼女の銀行口座も何も知らなかったことに気がついた。




今日の漢字:「徒花」(あだばな)
咲いても実を結ばない花。あるいは、はかなく散る花。

(緋片イルカ2018/11/14)

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