「泡沫」読めますか?(ゲス漢18)

※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。
妻の浮気シリーズは「綺羅星」読めますか?(ゲス漢16)からの連作です。

公園のベンチに座ってスマホを打っていると、不意に名前を呼ばれた。
 驚いて肩がふるえた。夫からのLINEに返すのに夢中になってたってのもあるけど、もっと驚いたのは旧姓で呼ばれたから。
「変わらないな、お前。なんかに集中してると周りが見えなくなるクセ」
「もしかして松山くん?」
 高校の卒業式以来だったがすぐにわかった。髪にはいくらか白いものが混じり、フレームの細い丸い眼鏡をかけて、ダークグリーンのカーディガンを羽織った目の前の男性は、あの頃の松山くんに老人役の仮装をさせたみたいに松山くんだった。
「ぜんぜん変わってないね。すぐわかった」
「お前もな……」
 松山くんは隣に座ってわたしの旧姓を呼んだ。
「ああ、今は違うんだ」
「そっか……」
 わたしが結婚をしたと知ってさみしそうな顔をした、なんていうのは勘違いだろうけど、たしかにさみしそうだった。
 松山くんは、なにかのおまじないみたいに呟いた。
「あいべつりく、おんぞうえく、ぐふとくく」
「え、なに? ぐふとく?」
「愛する人と別れなきゃいけない愛別離苦(あいべつりく)、憎い人と会わなきゃいけない怨憎会苦(おんぞうえく)、求めても得られない求不得苦(ぐふとくく)、仏教の言葉だよ。つまりは生きてる者は苦しみからは逃げられないってこと」
「それって……あの質問の答え?」
「ん?」
 思い出せない松山くんに、わたしは思い出し話をはじめた。
 席替えで隣の席になったこと。今とおんなじ、木々が赤らみはじめた秋だったこと。松山くんはよく居眠りをして先生に怒られていたこと。よく話しかけてくれたこと。それから松山くんに質問されたこと。
 人間がぜったいに避けられないものって知ってる?
「そんなこと言ったの、俺が?」
「覚えてないの?」
「んん……だって高校の頃の話だろ。もう30年以上前だろ」
「じゃあ問題出すだけ出しといて忘れてたってこと?」
「お前だって、ずっと考えてたわけじゃないだろ?」
「うん、まあね……」
 当時のわたしの答えは「出逢いと別れ」だった。
 わたしは初恋の相手・松山くんと別れ、大学に入って今の夫・下衆山に出逢い偕老同穴の契りを交わした。わたしにとってはどちらもぜったいに避けれないものだった。
「なあ、今からちょっと付きあってくれないかな?」
「え、今から?」
「そんな訳にはいかないか。家で旦那さん待ってるもんな」
「んん……」
 掌のスマホを見下ろした。未送信のメッセージが残っていた。わたしは文章の後半を書き直して、高校の同級生と偶然、再会したことを説明して、ご飯を食べてきていいか、夫に伺いを立てた。
 嘘はついてない。
 やましいキモチはない、と嘯いた(うそぶいた)。
 もう少しだけ、松山くんとの泡沫の時間に浸っていたかった。
「楽しんでおいで」
 夫の優しい返事に棘が刺さったように胸が痛んだが、
「松山くん、どこに行く?」
 わたしの声は軽やかだった。

(つづく)




今日の漢字:「泡沫」(うたかた)
水面に浮かぶ泡のこと。儚く(はかなく)消えやすいものの例えとして使われる。

(緋片イルカ2018/11/20)

「螺子」読めますか?(ゲス漢19)

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