作家の影響力(文学#82)

誰かが差別発言をしたとする。

自宅のテレビを前に、家族に向けた発言であれば、大きな問題になることはないだろう。

選挙で選ばれた政治家が、国会答弁の場で言ったとなれば、その後は想像に難くない。

Twitterだったらどうだろう?

実際問題として、フォロワー数に寄るだろう。

youtuberとかインフルエンサーとかの発言であれば、アンチの攻撃も相まって炎上するだろうが、誰とも知らず、好き勝手にツイートしているようなアカウントであれば、一人や二人リプライがくれば良い方で、そっとブロックされかねない。

言葉というのは「誰が」「どこで」言ったものかが大きく影響する。

物語はどうだろう?

物語と作者を「切り離して捉える場合」と「関連するものとして捉える場合」がある。

この違いは無意識で、読者は都合よく切りかえて物語に接している。

文学作品のような作者がタイトルと同じぐらいに立っている場合は「この作者だから」という読み方がよくなされるし、エンタメ作品では作者か誰だか知られずに流行っているような場合すらある。

映像作品ではプロデューサー、スポンサー、監督、役者、脚本家、原作者など、セリフなど物語に少なからず影響を与えそうな立場が複数いるので曖昧になる。

ここでは文学的な立場の作家として考えてみるが、その作家が、どれだけ自分の物語の影響力を自覚しているだろうか?

物語の中に差別発言をするキャラクターが登場したとして、それをそのまま作家自身の考えだと言う人はあまりいない。

だけど、主人公のセリフで、その主人公の価値観が勝利してハッピーエンドのように描かれていたら、どうだろうか?

それは作家の思想のように受け取る人は多いのではないか。一人称で書かれた私小説は、作者自身と錯覚しかねない構造ももっている。

作者が「アイロニー」(皮肉)として書いていたとしても、悪趣味に差別を面白がって書いていたとしても、作品からは判別がつかないこともある。

物語分析では、作品をいったん客観的に捉える作業で、作者が「アイロニー」として描いているなら、それをセットアップする必要がある(セットアップしないから誤解を受ける)と捉える。

そのセットアップができていないのは、作者が「アイロニー」を主張しても、それはポーズで実際は悪趣味な人間ということもあるし、物語の創作技術が追いついていないということもある。

後者の、無自覚に価値観を増長するタイプの作家は不幸ではないかと思う。

選挙で投票に行かないことは第一政党に投票していることと同じだという考え方がある。

差別に反対意見を述べないことは、差別を肯定しているのと同じだという考え方もある。

作家は無自覚であっても物語を通して強い影響力をもっている。

社会的なイデオロギーなどと無関係に、ただ物語を描いているだけだと思っていても、何万部も売れたり、文学賞の候補に挙がるような人間であれば影響力を持っていることになる。

その売上げで生活しているというだけでも、その影響力の恩恵を受けていることでもある。

自らの影響力を自覚せず、無責任な態度をとることは、いかにも現代の資本主義世界の奴隷のように、僕は感じる。

「売れる」というだけで担ぎ出されて物語を紡ぐ作家は、戦争のプロパガンダに従う作家と変わらないのではないか。

いや、命や生活の危険に瀕せず裕福な生活を送っている分、戦時中の作家より質が悪いかもしれない。

物語と向き合っていながら、そんなことに自覚的になれないのだとしたら、作家として不幸にみえる。

物語を書くことを商品を生み出すことと勘違いして、疎外されてしまっている。

自覚的に無責任の態度をとっているのだとしたら、文学と向き合う作家として二流だと思う。そこに売上げは関係ない。

複雑な世界を掴みかねて、安直な偶像にすがってしまう人々がいる。

環境に悪いと分かっていてもプラスチックを使ってしまうように、罪悪感を抱えながらも行動を起こせない人もいる。

受動的な人々を都合のいいように誘導しようとする悪意をもった人がいる。

多様性を尊重するとは聴こえは良いが、その裏には目を背けたくなるような悲惨や憎悪が満ちている。

こんな世界で自分はどう生きていくのか。作家として、どんな物語を描くのか。

文学と真摯に向き合うということは、同時代の世界と真摯に向き合うことである。

緋片イルカ 2023.6.3

SNSシェア

フォローする