薬物と創作
先日、駅のホームで電車を待っているとき、後ろの人の話し声が聞こえた。
「クリエイターというのは自分を追い込む気概がないとダメだ。人によっては薬物まで使う。最近ではそこまで出来るクリエイターはいない。過去でいえば太宰治ぐらいだ」
一字一句覚えてないが、要約するとこんな感じの話だった。
顔を見たら、50代のオッサンが20代の若者に語っているかんじ。業種こそわからないが、太宰を挙げるぐらいだから作家系とか演劇系とかもしれない。派手な感じではなくミュージシャンではないか。
オッサンの顔がやたら若者に近かった。若者は相づちや反応がほとんどなくて、聞いていないのか、受け止めているのかわからなかったが、しっかりとオッサンの方を向いてはいた。ちなみに赤羽駅である。
オッサンは、自身もクリエイターなのか(元クリエイター)、あるいは編集者やプロデューサー、演出家など作家に対して選択権をもつ立場なのか、関係者あるいは経験者的な話ぶりだった。ネットとかで創作活動をしている程度かもしれない。スクールとかにも、こういうオッサンはいる笑
クリエイターだとしても二流以下で、大きな仕事をしたことのある人の考え方では絶対にないし、プロデューサー的な立場であれば、こんな考えの人と一緒にやっても良い作品は創れないだろう。
「病み気質」と「創作行為」に関連性がないとは言えない。むしろ、あるだろう。
明治や昭和初期の日本文学者のイメージが強いせいか、こういう考え方が、どことなく市民権を得ているように思う。
だけど、市民権を得ているような一般論は、もはやクリシェだということ。
このオッサンが言うような「自分を追い込む」「病む」「良い作品が創れる」を一緒くたに考えても、良い作品など創れない。
スポーツで技術的な指導ができない監督が、根性論ばかり語るようなもの。
オッサンは薬物まで是認していたが、たとえばスポーツでドーピングをしたからといって、素人がプロに勝てるほどパフォーマンスが上がるわけではない。
ストレスがかかればアルコールやタバコなどに頼る人がいる。クリエイターだけではない。どんな職種でもそう。
カフェインとかメディテーションとか、負荷の軽いものも含めたら、どんな仕事でも、誰でもやっている。疲れたときに栄養ドリンクを飲んだりとか。
それらをやってパフォーマンスが上げるのは、その人が元々持っている能力が、せいぜい数パーセントアップするようなもので、何倍にもパワーアップするわけではない。
そんなこと、濃いコーヒーでも、エナジードリンクでも飲んだことがある人なら誰でもわかる。場合によっては能力が低下すらする。
薬物をやろうが、元々の能力が低ければ良い創作などできないし、元々の能力が高ければ、そんなものに頼らなくても良い創作はできる。
元々の能力が高い人が薬物をやれば、さらに良い作品を生み出せるかもしれない、という理屈はあるが、それによって作家人生を短くして(身体を壊してその後に創作できる本数を減らして)まで、生み出す価値がある作品なのか。
そこまで成長してこれた、能力が高い作家であれば、その先にもっと行けると僕は信じたいが、まあ、場合によっては、それしかないと思ってしまった作家も歴史上はいる。
とはいえ、死んでしまった作家のことは「もしも」の話にしからないので今はいい。
作家が自分で(ここは選手と言ってもいい)、薬物をやることに価値を見出して自滅するのは、自由と言えば自由なのかもしれない。
僕は是認しないが、周りに止められないということもあるかもしれない(ただしい治療に出会えない不運もあるだろうが)。
本人は家族や友人に迷惑をかけることまでわかっているのか、それでいて創り上げた作品も大したこともなくて、そんなのかっこよくも何でもないし、ただの可哀想な人でしかないなと僕は思う。
少なくとも、赤羽駅のオッサンのように、若者に向かってそんなことを、くだを巻いてるのは、はっきりいってクソだなと思う。
ちなみに僕の作家としてのスタンス、あくまで個人的な意見として言えば、違法的なドラッグは、そんなもの使わなくてもリラックスや覚醒、集中状態は創れるし(ちなみに脳内麻薬は、実はドラッグの何倍も強い)、そんなのに頼って創作してる連中より、良いものを創作できるとも思う。もちろん、良いものを創るための努力も惜しまない。
「書けない」とか悩んだり現実逃避したり、ドラッグなんかに走ってるヒマがあるなら100本書いて、100本分析しろやと思う。
作家が病みやすい要因
努力の判断基準
オッサンの言葉のうち「自分を追い込む」という部分だけとるなら「努力で追い込む」のは正しい。スポーツでいえば練習で追い込むこと。
どんなものでも成長するには努力が必要。
だけど、頑張りすぎると人は苦しくなる。
成長するには辛くてもやり抜かなくはいけないラインがある。
「苦しくても頑張るべきとき」なのか「オーバーワークだから休むべきとき」なのかの判断が難しい。
それを判断しないといけないときは、たいてい辛いときなので、自分の判断が正しいかどうかも悩ましい。
スポーツであれば、身体のことなので医学的な判断をしやすいが、創作ではかなり曖昧。
これは、クリエイターが病みやすい理由のひとつだと思う。
ラインを越えていけないなら、成長はできない。
簡単に逃げてしまうな人は「覚悟が足りない」か「向いていない」のかもしれない。
「向いていない」ことを続けていてもスポーツでは結果を出すことは難しい。プロにもなれないだろう。
ただし、その場所が「合わない」だけだったということもある。
チームを変えたり、やり方を変えたら、成長できるということもあるかもしれない。
創作では、向いていない人が向いていないことをやり抜くことにも意味がある
やるかやらないかは自分で決めるしかない。
作品の評価基準
自分の状態を判断しづらいのと同様に、作品の出来に対しての評価も難しい。
これもクリエイターが病みやすい理由のひとつ。
完成した作品に対して、ある人は「良い、面白い」と言ってくれるのに、別の人は「悪い、つまらない」と言う。
良いと言ってくれる人は、友達や仲間だから褒めてくれただけなのか?
ケチをつける人の意見が本当は正しいのか? それとも、その人が攻撃的なだけで、やっぱり「良い作品」なのか?
売上げとか、投稿サイトでの「いいね」数は、統計的な(客観的な)1つの答えのようにも見えるが、物語の価値は絶対にそれだけにはない。
売れていてもくだらない作品はたくさんあるし、売れてなくても良い作品は山ほどある。
ここから考えれば、プロでもアマでも「良い」作品かどうかは関係ない。
作家を職業として、その収入で生活費を確保しようとするという意味での「プロ」にとって「売上げ」を無視して書くことはできない。
デビューはできても売上げが悪いなら書き続けることはできなくなっていく(だからプロの作品の方が「良い」かどうかはともかく「面白い」ことが多いのは事実)。
たとえば、生涯で1本だけ世界的大ヒットのような作品を残して50~60年暮らしても余るほどの収入を得ていたら、プロと呼べるのか?
そんなことを考えだすと、プロを定義づけることには意味がないとも思えてくる。
自分にとって「良い」と思うなら「良い」し、「悪い」と思うものは、自分にとっては「悪い」。
プロを目指すのであれば、主観的な「良し悪し」とは別に、売上げ的な基準は同時に持たなければいけないけれど、それも、プロ作家としてどのラインを目指すかにもよる。
大ヒットを目指すのであれば、多くの人に受け入れられなくてはいけないから「売上げ」が重要になるし、売上げが悪くなれば、自身の報酬も少なくなりプロとしての度合いも低くなる。
自分の「良い」と、売上げの「良い」が一致している部分が大きい人であれば、自分が良いと思うものを書けば売れる。
一致している部分が少ないもので売れようと思うのは勘違いの夢物語。絶対にムリなど言いきれないが可能性は低くなる。
いずれにせよ、自分にとっての「良い」は作家自身が決めるしかない。
繊細さ
作家が病みやすい理由として、もうひとつ考えられるのが「繊細さ」だろう。
「物語を書く」という行動自体が「補償行為」(アドラーでいう)のようなところがある。
日常生活で、何か思うところがある。言いたいことがある。
だけど、それを生活の中では解消しきれない。だから、物語を書くという側面があるだろう。
繊細すぎると、ちょっとした他人の評価が気になって、書けなくなったり、過剰に一喜一憂してしまう。
鈍感すぎると、キャラクターの魅力に欠けるものしか書けないこともある。
性格による部分が大きいので、本質的には変えられないことが多いだろうが「繊細さ」は、創作行為にとってはプラスになることが多いと思う。
鈍感すぎる人も、鈍感だからこそ書けるものというのがあるので、自分に合った作風を見つけることも大事だと思う。
ただし、繊細すぎて作品が書けなくなったりするようであれば、折り合いの付け方を身につけて、コントロールできるようになると良い。
また、先天的な「繊細さ」だけでは良い物語が創れるわけではないことも、勘違いしてはいけないところ。
スクールなどの素人に近いレベルだと「繊細さ」が個性のように見えることがあって、クラスの人が気づかないようなことに「自分だけが気づけている」と天才かのように勘違いしてしまう人がいる。
クラスでちはほやされる程度の「繊細さ」はプロの作品では普通やクリシェだったりすることが多い。
また、作家自身が繊細でなくても、繊細なキャラクターを描くことはできる。
学習によって、後天的な「繊細さ」を身につけることはできると言い換えてもよい。
他の記事でも何度も書いている例だが、レストランのウェイターのような仕事を想像するとよい。
繊細さが気配りにつながって、お客さんの気持ちを察するのに長けている人がいるだろうが、それをマニュアルによって形式的に身につけることだってできる。
繊細な人は、小さなミスをいつまでも引きずってしまうかもしれないが、鈍感な人の方がトラブルへの対処能力は高いかもしれない。
大切なのは、自分の個性を自覚することと、創作行為(自分にとっての「良い」)への向き合い方なのだと思う。
作家像
赤羽のオッサンの話でクリシェと言った明治や昭和の破滅的な(そして金に困ってそうな)文豪などのイメージ。
それとは真逆なハリウッドの大ヒット作品の脚本家や、ベストセラー作家、あるいは売れっ子マンガ家などを想像したらどうだろう?
ある時期以降の「プロ作家」には成功者のイメージがつきまとうようになった。
実際は本当に売れている人だけのイメージで「プロ作家」のぜんぶがぜんぶ、そんなじゃない。
プロ野球選手がみんな大谷翔平じゃないし、プロ棋士は藤井聡太だけじゃない。
ニュースにならず、一般人にはほとんど名前を知られていなくても、しっかりプロとして、良い仕事をしている人がたくさんいる。
アイドルとか芸能人で同様に想像してもいいだろう。収入はピンキリだし、必ずしも知名度とは一致しない。
トップばかりイメージしているのは、その世界に詳しくない証拠と言えるかもしれない。
創作行為の本質は「その人にしか書けないものを創作し、それを社会に還元すること」だと、僕は考えている。
「還元」は、なるべく健全で平和的で、人が幸せになれるものだといいとも思う。これは願いのようなものでもある。
すべての人が満足するものなど存在しないから、必ず誰かには不満が残る。それでも誰かにとっての幸せになればいい(単純な数の多い少ないではなく、たった一人でもいい)。
これは僕にとっての「良い」の基準だし、作家として、そういうものを創り続けていきたいと思う。
自分にとって「良い」ものが書ければ、売れても売れなくてもいいというタテマエは大事にしたいとも思う。
僕も一個人としての生活があるのでお金は欲しい。だから仕事として頼まれたものでは「売上げ」は大事にするけど、その中でも自分の「良い」は追求できる。
売ることを前提にしながら、僕にしかしか書けないものを書き(原作の脚色でもそう)、社会に還元できれば、とりあえずは「良い」ものとしたい。
とはいえ、お金とは関係ない創作もつづけていく(プロとしてお金ができた方が、お金とは関係ない創作がやれるという皮肉な現実も感じながら)。
これは僕自身の作家像でもある。
作家はプロでもアマでも、それぞれに自分の書きたいものがあって、自分にとっての「良い」基準があって、個人としての生活があって、葛藤しながら創作している。
作家を目指すことや、作家であることは、そのまま自分自身の人生を、どう生きるのかということでもあるのだと思う。
揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、創作者の間では人間の生活様式に対してクリシェであると非難することは一般的なことなのですか?私としてはそれが表現以外に対して用いられているのを見たことがありません。仮にそうだしたら、ドラッグはまともな人間のやることではないという極めて一般的な、世間に受け入れられている意見をお持ちのあなたはよりクリシェである、ということにはなりませんか?
また脳内麻薬はドラッグの何倍も強いとのことですが、それはβ-エンドルフィンのことですか?それを意図的に放出させることは現実的ではありませんが、その脳内麻薬とは一体どれの事を言っているのですか?