先日、こんなことがあった。
母の買い物に付き添った帰り道。路地を歩いていると、後ろから自転車がやって来た。
50~60代の男性で、ロードバイクだがゆっくりした速度で近づいてきた。
母が気付いていない様子だったので避けるように声をかけると、ちょうど母も自転車も同じ方向に行こうとして、男性はいったん自転車を止めて足をつく羽目になった。
男性は体勢を直して抜いていくとき「道の真ん中は歩かないようにしましょうね」と言って去って行った。
ちなみに路地は車一台がギリギリ通れるほどの幅で、母は脚が悪く杖をついて歩いていた。
変に母を擁護するわけではないが「何分にも渡って道を塞いでいた」ということはない。ほんの数秒である。
男性は怒声を浴びせてきたわけではない。
どちらもマナーが悪いというほどではないと思うが、男性の正論じみた文言が妙に引っ掛かって「いやいや、歩行者優先じゃないの?」と思った。
僕は街で、他人と「ああだ、こうだ」と言い争うタイプではないし、悪いと思ってなくても反射的に「すいません」と対応してしまうタイプだが、変に考えてしまうところがある。
彼はどんな気持ちで、あの言葉を吐いたのだろうか?
追い抜いた後もゆっくりと去っていったので急いでいる様子ではなかったが、進路を妨害されたことに対するストレスはあったのだろう。
誰しも経験したことがあると思うが「危ない!」と思ったときには瞬間的なストレスがある。
母と同じ方向に進んだとき、彼がそう思ったことはありえる。
ストレスを感じたとき、人の反応は3つに分かれると言われる。
Fight(戦う)、Flight(逃げる)、Freeze(固まる)の3つのFとも言う。
彼が、母に向かって説教じみた言葉を言ったことは「戦う」に近い。
よく、反射的に怒鳴り付けている人も見かける。
あれは、反応的には「びっくりしたな!」ということと同じなのだと思う。弱い犬ほどよく吠えるというが、ストレス耐性が弱い人ほど声が大きくなるのかもしれない。
それに対して、自転車の男性は穏やかな声で正論を言うかのように声をかけていったので、いくらかの自制心が働いていたと思う。
そういう時に、言葉に価値観や思想がにじみ出る。
「危ない!」というストレスを感じたあと、自分が悪いと思っていれば「すみませんでした」という謝罪的な言葉が出てくるだろう。
せめて、お互い悪いと思っていれば「気をつけましょうね」という言い方になる。
それが相手を注意するような言い方になったということは、非は母の方にあると思ったということになろう。
彼は日常でも、そういう価値観で生きているのだろうと想像する。
個人差を一切無視して言えば「歳をとると怒りっぽくなる」という傾向があると思う。
脳機能の衰えで、自分を客観視する力が弱くなってくることが考えられる。
加えて、歳をとって社会的に認められている立場にある人は、他人から注意されるということが少なくなってくる。
注意されたとしても、一方的に怒鳴り散らして解決してしまうこともあるだろう。
社会的地位が高ければ、周りが忖度したり、地位が高くなくても「あの人には言ってもしょうがない」と諦められていく。
昭和なんかに比べて、時代的に社会全体よりも個人の生き方や価値観が優遇される時代になってきていることも、少なからず関係しているだろう。
一方的な言葉は攻撃になりかねない。
大切なのは双方向のやりとりである「対話」だと思う。
あの自転車の男性も、酒でも吞みながら話してみたら素敵な一面をたくさん持っているのだと思う。
そうやって想像していくことで、彼が「道端で出逢ったちょっと嫌なヤツ」ではなくなっていく。
これは、物語のキャラクターを創ることにも似ているな、なんて思って、僕の思考は終わる。
僕にとって書くことは話せない相手との対話なのかもしれない。
緋片イルカ 2022.12.11
物語論的な気づき:
・「嫌なヤツ」を「嫌なヤツ」としか描けないとクリシェになる。
・そうならないためには作者自身の「視点」が大事。
・主人公がクリシェな感情しか、持っていない物語はドラマが薄い(クリシェな設定ではない。クリシェな感情)。
・子供向け、教育的なストーリーではクリシェな感情も許容されるだろうが。