小説コンクールと運要素

競争倍率を考える

コンクールに受賞することは、宝くじに当たることとは違います。これは、受験のように考えると明らかです。

基準点に届いていなければ、足切りされるように、最低限の日本語すらできていないとか、文章の意味がわからないといった場合は、面白いかどうか以前に、読む気すらしないでしょう。

では、基準点はクリアしているとします。

文章力や構成力もあって、ネタやキャラクターも面白い。

当然ですが、一次、二次選考を突破できる可能性は高くなります。

これが受験であれば、募集定員に入れれば合格です。

受験では倍率が出ますが「受験者数/定員数」です。定員100人募集しているところへ120人が受験するのであれば120/100で1.2倍となり、20人は不合格となるわけです。

これをコンクールに置き換えてみると、例えば124回「文學界新人賞」の応募総数は2712篇、うち定員を受賞とするなら2篇、最終選考としても5篇です。
倍率にすると受賞倍率は1356.0倍、最終選考に残るためだけでも542.4倍です。

倍率にすると確率のように見えますが、考え方としては、トップ5に入らないと合格はできないと考えるべきでしょう。
つまり、受賞するには2712人中、1番か2番にならなくてはいけないということです。

この視点に立ったとき、基準点をクリアしているかどうかはもはや問題ではありません。クリアしていて当たり前です。

さらにネットで自己紹介や作品紹介に「○次選考に通過した」という謳い文句をつけている人がいますが、何次選考だろうと五十歩百歩です。これも受験でいうなら、不合格だったけどあと3点で合格できたという人と、15点で合格できたという人の差で、不合格には変わりがなく、志望校には入れないということでは同じだからです。

最終選考は担当編集者がついたり出版されることがあるので、その場合は意義があるといえるでしょう。受賞の目的はデビューなので、その可能性があるなら、一次落選でも編集者から声がかかることがあれば目的は達成しているといえます。受験でいえば、テストの点数は足りなくても推薦で入れたようなものです。

運の要素を考える

コンクール選考で、「運」が入るとしたら、まず下読みの人間です。誰がやっているかも公表はされません。一般的に、評論家や新人作家などに数本を渡して、評価してもらうという形だそうですが、その下読みの「当たり外れ」が、ときどき言われます。リテラシーの低い下読みがいて、面白さやテーマを読み取れないとか、最初の数ページしか読まない人がいるとか、一次選考で落ちた作品が、他のコンクールに出したら受賞したというような話もあります。

この問題は、落選作品を別のコンクールに応募することで回避できます。

応募作品は落選がきまった時点で、別のコンクールに応募しても二重投稿とはなりません。落ちたら次に出せばいいのです。

コンクールの傾向もあります。

まず、募集要項に合ったジャンルなのかという問題です。小説でいえば「純文学」「エンターテインメント」「ミステリー」「ラノベ系」は大きくジャンルが変わります。他にもホラーや児童文学といったくくりもあります。

「純文学とはなんだ?」とか、「広義のミステリーというのはどこまでは許容されるんだ?」といった疑問はありますが、少なくとも、どういう作品を求めたコンクールなのかは募集要項に明記されています。

純文学として優れた作品でも、ラノベのコンクールに出せば落とされてしまうのは当然です。これも受験でいえば文系の人が理学部を受験しているようなものだったりします。基準点をクリアしていないのと同じです(※言うまでもありませんが応募書類に不備があるとか、規定枚数を守っていないといったことは選考にかからないので問題外です)。

この傾向というのを、さらに踏み込んで研究している人たちがいて「あのコンクールは歴史物が受賞しやすい」とか「トリック重視のミステリーが強い」といった、内容にまで傾向と対策をたてています。

これについては一長一短です。

「歴史物」が何度も受賞しているといっても、選考する側が「今年は歴史物はやめよう!」と考えているかもしれません。たまたま過去は面白い作品に「歴史物」が多かっただけかもしれません。主催者に知り合いでもいればともかく、応募する側には予測不能です。コントロールできないことは考えても仕方ありません。

もし、主催者が本当に歴史物だけを求めているのであれば、募集要項にそう明記するはずです。その方が選考の手間が省けるし、コンクールとしての個性が出せます。それがないということは、傾向と対策がどこまで有効かは不明です。(※ただし歴史物についていえば、調べることでキャラクターを補完できるので、努力で物語の完成度を高めやすいという利点はあります)。

「トリック重視」という傾向にしても、そのトリックで安易ではあればつまらないし、突き詰めれば面白くなるのは当たり前です。作品の個性をきちんと高めるというのはトリックに限らないことです。単純に面白いものが受賞していると言い替えられます。こうなれば傾向は関係ありません。

また、傾向が認知されすぎると、同じような作品がたくさん応募されるという可能性もあります。逆に「トリックを重視していない」ことがオリジナリティになるかもしれません。ここは受験とは違います。理科系で点数をとりやすい科目として物理を狙うといった受験のようなテクニックは通用しないのです。むしろ、創作に関していえば、苦手なことをやるよりは、得意なことを伸ばしていった方がオリジナリティにつながる可能性はありそうです。

このように、傾向と対策はあるかないかも一概に言えないし、あったとしても、それに従うのが得か、損かもわからないのです。

「運」といってしまえば、そうでしょう。受験でもたまたま前日に復習した問題が出たとか、得意な問題、不得意な問題が出たといった「運」はあるのです。

運は言い替えるなら「不確定要素」です。

世の中のどんなことでも「不確定要素」を排除できません。
受験との大きな違いは、正解や点数が明確でないので、「不確定要素」の割合が大きい(あるいは大きく見えるだけ)です。

量の戦略

これまで見てきたように「競争倍率が高いこと(受賞確率は低いこと)」と「不確定要素が多いこと」を考えると、コンクールの受賞には運の要素がとても大きいように見えます。

これに勝ち抜くための戦略は「量の戦略」しかありません。一言でいえば「たくさん書いて、たくさん出すこと」です。

たくさん書くことは、質をあげることになります。これは当然です。運動と同じで、文章や物語もたくさん練習すればうまくなるのです。これによって、基準点をクリアする力はそのうちついてくるでしょう。

たくさん出すことは、宝くじを何枚も買うのとおなじで、競争倍率を下げること(受賞確率を上げること)にもつながります。

「たくさん書いて、たくさん出す」。

単純で、あたりまえですが、「運」をコントロールすることのできない我々には、これ以外の戦略はないのです。

あとはどこかでコネをつくるかです笑

ただしコネでデビューできたとしても、評価するのは読者です。ライバルはベテランを含めたプロとの戦いです。コンクールも勝ち抜けないような実力でデビューしても、その後が続かないでしょう。

これは、替え玉受験で一流の学校に入っても、その後の授業についていけないのと同じです。

緋片イルカ 2020/04/02
2020/04/11改稿

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