僕の創作テーマ

※この記事は誰かに向けてというより、現時点での考えていることを整理するためのメモの意味合いが強い内容です。ていねいな説明をしていない箇所があります。

エンタメ性・三幕構成・文学について
僕の中ではエンタメとアートと、小説でいえばエンタメと文学という、定義はアバウトだが対立項のようなものがある。本当にいいものは両立していると思えるものもある。けれど、両立しえないときも多くかんじる。
僕は創作上でこの問題をずっと抱えている気がする。最近、連載しているミニプロットについてのシリーズ記事ではアート寄りの映画について考えている。アークプロットはエンタメに最適の手法なのは疑いはない。面白くするための力学はわりと明白で、それを使えばエンタメは創っていけると思う。簡単にとは言わない。制作上の大変さ、労力はかかるので「簡単なお仕事」ではない。けれど、本当に自分と向き合って無から有を生み出そうとする創作に比べれば、簡単とも多う。制作には方法論があるけど、創作ではそれが通用しないという意味でもある。アークプロットにはプロパガンダのような、ある種の怖ろしさや、居心地の悪さを感じるときがある。今のロシア・ウクライナ情勢のニュース報道にも似たような構造がみてとれる。プーチンを悪いものにして物事を簡略化するエンタメ化するストーリーでは描けないものがある。分析したりして物語の力学がわかるようになればなるほど、アークプロットを使うことに抵抗感が湧いてきたりする。もしかしたら核爆弾を開発していた研究者の気持ちに似た部分が、もちろんレベルも、内容も全くちがうが、似たような構造があるかもしれない。純粋に研究していただけなのに、自分の手に負えないもの創ってしまった。「それ」とどう向き合っていったらいいか、哲学が必要になってくる。文学とは物語に対する哲学のようなものでもある。過去に、読書会で芥川賞をとりあげてきて感じたことは、一般的な社会での文学とくくられているものは、哲学の要素を含みつつも、エンタメの構造が強いだけの中途半端さがあること。人間が物語を受けとるときに、アークプロットがどれだけ強いかということでもある。認識のバイアスみたいなもので、アークプロットにのっとって語られた物語は、読者や観客に、考える隙を与えずにメッセージを伝え、すばらしい内容であったと錯覚させる。だから、立ち止まって、考える必要がある。勢いに流されず、本当に何が正しいか考えて、話し合う必要がある。書き手だけでなく、読み手の問題でもある。現代の日本の文学作品と呼ばれているものが、エンタメに毒されている傾向があることは、立ち止まって考えられる人が少なくなっている証拠でもあると思う。それでも、きちんと読めている人は文学の世界にはいる。もちろん日本だけでなく世界にもいる。時代が加速していく中で、立ち止まることは勇気もいるし、理解もされなくなっているが、文学を書かなくてはいけないと思う。いま、エンタメとしての仕事を頂けていることは、本当にありがたい。現代の日本で生活していく上では、どうしても働いて収入を得なくてはいけない。どんな状況でも書きつづけようと思っていたのでフリーターでも気にせず(不安になっても自分を納得させて)続けてきたが、生活が安定することは本当にありがたい。自分が、変にエンタメばかりに寄ってしまわないかと一瞬考えもしたが(ああ、そういえば、早い段階でそれを指摘してくれていた人がいた彼の鋭さに改めて気づく)、むしろ、逆で、そちらでの仕事があるおかげで、勇気をもって文学を書ける気になってきている。わからない人に評価されなくても、自分の文学を書きつづけようと思う。「あんな奴らにはわからない」といった反発心ではない。書く方も誰にでも伝わるように工夫するし、きっと、あの人なら、わかってくれるだろうと信じられる人だっている。

日記体小説・一人称
ここからは具体的な技法の話。昨年に書いた作品から「日記体小説」というスタイルが、自分の書きたいものを表現しやすいとっかかりを感じた。日記であるかどうかは、いいのだが、僕の中で、前々からひっかかっていたのが、小説の「地の文」は「いつ、どこで、誰が?」というひっかかり。脚本ではいつもカメラなので、そこに疑問を持つことはなかったが、地の文は誰の言葉なんだろう?という考えると書きづらかった。それが日記体という、文章を書いた人間の日時を固定するスタイルによって解消できる。それと一人称。人間は物事を自分の見たとおりにしか認識できない。主観には勘違いや記憶ちがいもあるし、ときに幻覚だってあるが、その人にとっては、それが生きている世界。今のところ、僕には一人称から離れて、文学を書くことはできないような気がしている。映画的な、カメラ視点としての三人称で、エンタメ小説を書くことはできるが、それはやりたいことではない。やりたいことと、できることは違うとはよく言われる。やりたい仕事より、できる仕事をした方がいいと言われたりもする。僕はエンタメが向いていると言われることもある。でも、前に通っていた学校で、僕の作品を呼んでくれた一人の先生、その方の読解力はとても信頼できるものだと思った先生が「文体はエンタメだけど、内容は文学だから、文学をやった方がいい」と言ってくださってくれたことは、残っている。「本当にいいもの」のように両立ができるなら、それがベストだろうとも思う。

stream of consciousness意識の流れ、あるいは「意識の小川」
一人称の延長には内語の問題がある。人間が思考しているときや記憶を思いだしているときの言葉。バフチンの人間の最小単位は二人であるという考え方は、とてもしっくりくる。内語は、無意識の誰かに対して向けられている。それが過去の人や会ったことがない人であったり、神であったりしてもいい。誰かに対して対話しようとしているのが人間だ。バフチンのいうような意味で「独り」の人がいれば、その人の人生には言葉が必要なく、精神も崩壊しかねない。障害者のような身体機能的に喋れないのではなく、言葉を失った人間の精神は崩壊しかけているのではないか。このテーマでもいつか書いてみたいが、ともかく、今は思考や意識の流れを追って、言葉にしていく技術を磨きたい。stream of consciousnessは「意識の流れ」と訳されるが、あえて「意識の小川」と呼ぶのがいいと思っている。川は人知れぬところから湧きだして、流れている。源流を辿ることもできるかもしれないし、流れつく先は湖や海かもしれない。一人の人間の意識の小川は、海に流れついて混ざりあう。海流をつくる。創造的無意識と構造は似ているが、その言葉で片付けたくはない。海はそこで終わりではない。蒸発して、雲となり、雨となり、山に降り注ぎ、また小川になる水の循環がある。この流れを描くことが、僕の文学のテーマのひとつ。

意識の小川と構成・作品の構想
三幕構成すなわちビートシート、アークプロットの強さは疑いようはない。意識の小川を描くときに、ビート通りにはならないことが多い。何度も何度も、いくつもいくつも書いていくなかで、たまたまビート通りになることがあるかもしれない。自然が生んだ、奇跡的な風景みたいなもの。それが書けるまで書き続けるというのもいいかもしれない。それなら一般の人にも面白さを伴って伝わるだろう。また、ある程度までビートに寄せるというやり方もある。意識の流れにビートを入れていくことは、つまりはエンタメ構造を取り入れることになる。これも一般の人は面白がってくれる可能性はあるが、中途半端にもなる。意識の小川とアークプロットはそもそも相性が悪い。ミニプロット的な構成の方がヒントがあると思っている。とにかく、意識の小川を扱うならば、流れを途切れらさせてはいけない。構成はテーマを伝えるための方式でもある。主人公の意識の小川を見せることで、何を伝えたいのか? そこに表面的なフックを入れることで、構成とは別の階層でのエンタメ性を確保できる可能性も感じている。もちろん描くべき、あるいは描きたいテーマは水の循環なのだが、階層的な構造にして、表面ではわかりやすいものを提供する。多少、あざとさはあるが、この方法の方が、アークプロットに寄せるよりは流れを邪魔しない。面白がってもらえる可能性がやや下がるが、個人的にはこちらのが新しいし、面白い。こういう取り扱いは、構成とは違う部分、作品としての「構想」という、最近、意識するようになった感覚。

緋片イルカ2022.3.31

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