人間には自ら生きようとする力があって、美味しいもの食べたいとか、楽しいことをしたいとか、もっと具体的な何かであったりを求めて、ちょっとぐらいの苦しいことがあっても頑張ろうと思えたりする。苦しいことの度合いが強すぎると、美味しいものとか楽しいこととかは、いいから、いったん、この苦しいことから逃れたいと思う。それでも逃れることができないと鬱になり、考えたり判断する力が弱くなっていき、やらなきゃいけないことだけが頭に残って、ただ従って、他のことをあまり考えられなくなったりする。老いとか病気とか体力的な問題で、生きようとする力自体が弱まってくることもある。生きようとする力のない人を助けたいと思っても、他人がどうにかできるなんていうのは驕りで、自分のことですらどうにもできないような人間ごときが、他人を救うなんてことは叶わない。それでも、救いたいと思って二重に苦しむ。矛盾するようだが、生きよう生きようと思えば思うほど生きるのが嫌になってくるようなときもある。もう死んでしまおうかなんて考える。そう考えることで、まだまだと力が湧いてくることもある。もう、いいと本当に死んでしまう人もいる。死ぬための動作、死にたいと行動することにもエネルギーがいるから、死のうとしてはいないけど生きることをやめてしまったような人もいる。子供や若い人は、いつか自分もそうなるということを肌身に想像できないから、共感から可愛そうとか悲しんだりはできても自分事ではない。無邪気な若さは励みにもなれば、ときに残酷でもある。ある程度、歳がいくと、老いや病が、自分の肌身に感じられてしまうので他人事ではなくなる。けれど、結局はどうしようもできない。こういうことを人生で直面せずに死んでしまう人もいる。子供や若い人同様に無頓着で愚かにすら見えるが、あるいは幸せなのかもしれない。いろんなことを考えながら、いま生きているという事実を前に、今を含めた残りの人生をどうしていくのかと考えながら、言葉を綴るということに意味を見いだそうとしている自分がいる。
イルカ 2024.8.7