レビューとの向き合い方(フィードバックとの違い)

先日、自分の関わった作品の劇場公開があり、当然のことながら各種SNSや映画情報サイトにレビューが付いた。

そういうものを見るのは初めてで、はじめは面白半分に見て一喜一憂もしていたが、だいたいレビュアーのパターンみたいのも見えてきて飽きてきたりもした。

創り手は、受け手であり観客の意見や感じ方を無視してもいけないが、それに引っ張られ過ぎてもいけない。

距離感のとり方に迷う人も多いのだと思う。

ライターズルームで「フィードバック」が多いと方向性が見えなくなるという意見があったが、レビュアーとフィードバックには明確な違いがあるので、そのことも書いておきたい。

いずれ、ライターズルームのメンバーが有象無象のレビューにさらされるようになったときへのヒントにもなれば幸い。

レビュアーとは誰なのか?

僕はあんまりレビューは気にしない性格だと思うが、頑なに「一切、読まない」というタイプでもない。

一切、読まないとあえて宣言するような人の中には、実際は読むこと振りまわされるのが怖いという人もいるのではないか。

僕だって気にしないと言いながら、良いものには単純に嬉しい気持ちになるし、攻撃されているようなものには嫌な気持ちになる。

ただ、いくつも読んでいるうちに、一喜一憂されているだけで、「なるほど! この意見は今後の参考になる」というような意見はレビューにはほとんどないことに気づいて飽きてしまった。

情報サイトにレビューをしているような人と、名前を明かしてきちんと批評をしている人には大きな差がある。

名前を明かして、ましてや批評家、評論家として仕事をしているような人は、自身の発言に責任がともなう。

変なことをいえば、批評家自身が叩かれる。

褒めるだけなら簡単そうに見えるが、それはそれで「褒めるだけの批評家」というレッテルを貼られるので、良し悪しである。

一番、簡単で無責任なのは、自分が誰かを特定できない状況で、好き勝手に言っている人間である。

そんな連中の意見など無視すればいいと、頭では理解できる人も多いだろうし、たとえば、周りの誰かが悩んでいたら、そう言うだろう。

けれど、無視すればいいような意見も、各種のSNSやサイトのフォーマットに則って言われると、影響力を持った一意見のように見えてしまう。

悩んだ末に鬱になったり命を絶ってしまった人は、そういう疑心暗鬼に吞まれて、平常心でいられなかったのだろうと思う。

発言者とコンタクトをとれるかどうかという点にも、読むに値するレビューかどうかの判断基準にできる。

名前を明かしている批評家には、それなりのコンタクトのとり方があるし、プロでなくSNSでも相手方が意見を受け入れる姿勢を示しているどうかで、正々堂々としているかどうかが分かる。

インターネットではある時期から、自由に発言ができる場が作られ、それは政治的な権力に対抗する力になりうるなどの面ももちながら、無責任でときに犯罪めいた発言ができる場も提供することになった。

我々は、こういう時代に生きてしまっているので、それ自体を批判していても仕方がない。我々の方で付き合い方を身につけていかなくてはならない。

僕は、自分が分別が付いてくる年代と、ネット文化が発達してくる時代とかが一致していたので、年寄りほどズレてもいないし、デジタルネイティブほど染まりすぎてもいないと思っている。

便利なところや、プラスの部分は、有効に使って、そうでない部分は無視すればいいと思う。

レビューや評論、もっと広い意味で「他人の意見」も、良いものは吸収したいし、そうでないものは無視すればいい。

「良い」というのは作品が良くなるとか、自分の技術が向上できると感じられるような意見である。

意見のパターン

情報サイトのレビューから見えてきた、いくつかのパターンに分類してみる。

長文だったり、いやに専門家らしいことを言っている意見など、大仰に見えてもパターンに分類してみれば、本質的には同じだと思えることもあると思う。

ファン・信者
役者や監督のファンなど、好意的な意見しか述べない。応援の意図でレビューしているのだろう。もらう方としては嫌な気持ちはしないだろうが、それを見ることでアンチが発生もするのだろう。「良い」意見は少ないが、ファンというものは、こういう部分に惹かれるのだなというヒントはある。現実でイメージするなら、ライブ会場にグッズをもって押し寄せる人たち。良くも悪くも、こういう人たちが興行を支えていることは事実である。

アンチ・嫌がらせ
ファンの反対。何が何でも揚げ足をとって貶めようとしている連中。情報サイトによってレビュアーが、他の人からフォローされているかや、過去にどういう作品にレビューをしているかまで確認できるものがあるが、いかにも、その作品を貶めるだけにアカウントを作ったと思われるものもある。個人的恨みがあるのかもしれない。意見として参考になるところは皆無だし、論理も破綻していることが多いので、常識ある人は無視するだろうが、目に入るだけ嫌な気持ちにもなるので迷惑ではある。現実では、ライブ会場で大声で文句を騒ぎたてているような人たち。こんなところで、あんなことしてもしょうがないのにな、とみんな冷たい目で見て素通りしていく。警備員(サイトでいえば管理人)、どうにかしてくれと思っている人も多いのかもしれない。

オタク・専門家きどり
「作品ではこうだが、実際はこうだ」とか「原作ではこうだ」といった意見を並べ立てるオタク。創り手たちよりも自分の方が知っているかのような意見を述べる。「へえ~そうなんだ」と思わせるような、知識自体はプロ顔負けのこともあるが、そもそもの論点がズレていることも多い。映画でいえば、そもそもオタクを満足させるために作っていなかったりするし、彼らは映画のプロフェッショナルではない。映画技術(CGや脚本、キャスティングがどうとか)に関して意見するオタクもいるが、本当に仕事でやっているプロであれば、実際の現場を知っていると言わないだろうという意見がある。現実でイメージするなら、ミリタリーオタクが、映画やアニメの銃火器などについて語っているとか、映画学校で難癖ばかりつけているシネフィルのようなもの。自分が認められないことへの不満の裏返しや、文句言いながらも「結局、好きなんでしょ?」という人も多いのだろう。

別サイト誘導型
レビュアー自身のSNSやサイトに誘導して「詳しくはそちらで」と書いているようなタイプ。営業活動の一環としてレビューをしている部分もあるのだろう。正々堂々としているという点では読むべきに値するかもしれないが、わざわざ読みにいかないという人も多いのではないか。批評家でもプロとして、きちんと意見を言う場をもっている人は、わざわざこんなところにレビューしないなという事実もある。現実でイメージするなら、一生懸命、名刺を配って売り込もうとするフリーランスのライターというかんじか。

率直な感想・記録利用
「〇〇が少しわかりづらかったけど、面白かったです」のような率直な感想を述べていく人。分量にしても1~2行とか。情報サイトだと、自分が見た映画の記録用としてただ★だけを付けていく人など。こういう人の感じ方というのは、実際はリアルなのではないかと思う。現実でイメージするなら、友達と一緒に映画を見て「おもしろかったね」と当たり障りない意見を言い合っているが、内心で、少し引っ掛かるようなところとかもあったりして、「でも、まあ、いっか」とあえて言ったりもしないような人。純粋な観客と言えるかもしれない。作品自体がマニアック向けだったりして、ターゲットに入っていない場合は、場違いな場合もあるが、大作で大ヒットを狙うのであれば、マニアではなく、こういう極めて「ふつうの人」を満足させることが重要になってくる。

場違いのクレーム
映画館の空調が寒すぎたとか、近くの観客のスマホが邪魔だったとか、そこに書くべきレビューではないもの。極めてどうでもいいが、そのクレームに基づいて★をつけていたりすると、作品の創り手にとっては迷惑だが、こういうのも含めて有象無象なレビューだと思う。現実でイメージするなら、映画内容の文句を映画館スタッフに言っているような人。「それを、こっちに言われましても……」という。

フィードバックとレビューの違い

レビュアーなど、サイト上の文字情報として見ると大層に見えても、現実でどんな人かをイメージしてみれば、正直、耳を傾けるに値しない意見も多い。

それでも、マーケティング戦略といった観点では、そういう有象無象の人たちをどう誘導するかが重要になってきてしまうのだろうが、クリエイターとして今後、作品を良くするためとか、向上するための参考になるものはレビューなどにはほとんどない。

むしろ、そんな大衆のレビューに振りまわされてしまうようなときは、自身の作品への「確信」が足りていないのかもしれない。

自分たちは「こういうものが作りたい」というコンセプトの元に作られた作品であれば、そこからズレた意見は聞き流せる。

これも現実でイメージしてみるなら、日本そばを提供している店なのに「メニューにラーメンがない」と文句を言われるようなもの。

看板に「麺類なんでもあります」と書いていたような紛らわしさがあったのなら、多少の改良の余地があるが、だからといって「今後はラーメンも出そう」などと改める必要はない。

ライターズルームで行っているようなフィードバックの狙いは、そばを良くするための意見である。

「つゆが濃すぎて塩っぱい」とか「茹ですぎで麺にコシがない」とか、そば=作品自体がよくなるための意見は、一考に値する。

意見を言う方でも、店主=作者が、どういう店を目指しているのかは汲んだ上で意見を言う必要がある(これは分析を仕事にしたい人にとっての練習でもある)。

慣れないうちは、言う方も言われる方も、見当違いのことを言ってしまったり、変に振りまわされたりするだろう。

きちんと言う、きちんと聴くというのは対話の基本。

正々堂々と意見を言うのは、作品を発表することと通ずる。

初心者は気恥ずかしさや自信のなさから、遠慮してしまう。自分の顔も隠してしまい、それは無責任さにもつながりかねない(ちなみにペンネームを使うことは無責任さではない。現実社会におけるさまざまな不利益からの保護策である。ペンネームだろうが、その人物へのコンタクトがとれるなら正々堂々としている)。

作品を書くということは多かれ少なかれ、誰かに読まれることで、読まれれば良い意見も悪い意見も言われるということである。

その距離のとリ方や、付き合い方も自由ではあるが、プロの作家としてやっていきたいとするなら、作品の規模が大きくなればなるほど、意見の数も多くなるということである。

それをプロになる覚悟とまで言わなくとも、仕事としてお金をもらうということは、どんな職業でも、責任がともなうものである。

別の記事で「作家の器」という言い方をしたが、レビューやフィードバックといった作品へのリアクションとの向き合い方も、作家の器のひとつなのだと思う。

緋片イルカ 2023.9.30

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