3つの作家像(文学#93)

たぶん、過去にも似たような記事を書いているが、改めて考えてみたくなったので書いてみる。

僕が考える3つの作家像は「エンターテイナー」「アーティスト」「シャーマン」である。

これらはタイプであって、レベルの問題ではない。

つまり「エンターテイナー」としての作家は、読者や観客を楽しませようとする。

そのテクニックに上手い下手はある。その差は現実問題としてはアマとかプロの違いになってくる。

けれど「アーティスト」としての作家は、そもそも楽しませようとは思わない。己の芸術観を重視する。

それが結果的に観客を楽しませることになれば、エンターテイナーとしての素質も少なからず持ち得ていることになる。

だから、エンターテイナーを目指すといって、アーティストとしての芸術観も持つべきだし、両者を追求した先には人知を超えたものとの交信であるシャーマン的なものに繋がる。

エンターテイナーとしての作家

どこかの記事で作品について「エンターテイメント」と「芸術」といった対立軸のようなものを想定したことがある。

これは、ときに相反するように見えることがある。

「エンターテイメント」は読者/観客が主体であり、作家自身の価値観よりも、受け手を優先する。

結果的に商業的成功とも繋がりやすい。

プロットアークに基づくような、表面的な面白さ、心地良さ、わかりやすいさ、シンプルなメッセージ性は、多くの受け手に伝わりやすく、その価値観が一般論に適ったものであれば共感も得られやすい。

だから、売れやすい。身につけるべき技術もはっきりしている。

作家自身がエンターテイナー的であれば、多くの人が楽しんでもらえることが、作家自身の喜びともなる。

初心者で、プロの作家として食べていきたいというのであれば、まずはエンターテイナーたることが必要かもしれない。

作家を仕事にするというのは「物語を売って、お金をもらう」ということである。

大ヒットとまでいかなくとも、それなりに売れなければ仕事にはならない。

次に説明する「アーティスト」としての作家を目指すのであれば、仕事になるかどうかは関係ないが。

アーティストとしての作家

極めつけのアーティストは、己の芸術観に見合ってさえいれば、売れなくても、誰にも理解されなくてもいいだろう。

他人を楽しませるのではなく、創作活動によって、自分自身が楽しむ。

究極の自己満足と言い換えてもいいかもしれない。

現実で、そこまで突きつめた無心なアーティストは皆無ではないか。

あるいは、そういう人物は、一般的にアーティストにみなされない。

たとえば、無心に砂山で何かを創ろうとしている子供のような無垢な存在。

多くの現実的なアーティストは芸術論を語りながらも、売れたり、認められることを求めている。

奇抜な言動で、受け手を楽しませていることもある。

プロのアーティストとして活動しているのであれば、結局のところ、その創作を支えているのは受け手である読者や観客なのである(この受け手にはスポンサーも含む)。

アーティストは高尚に見えて、何割かはエンターテイナーとしての資質を備えている。

その比率は、それぞれのジャンルやスタイルによるだろう。

人気のあるエンターテイナーにも個性や作家性があることを考えると、エンタテイナーだけでは作家として認知されないとも言えるかもしれない。

もしも、ビートシートのようなエンターテイメントの技術だけで楽しませることができるなら、物語はAIに創れるだろう。

今のところ、そのレベルまで達していないし、達するかどうかも疑わしい。

受け手は、物語から滲み出る人間性(それが作家らしさであれ、キャラクターの個性であれ)を求める。

これらはストーリーサークルでいう「視点」にあたる。

小説であれば作家自身の視点が大きく影響するし、映画のようなプロジェクトでは作品自体のコンセプトがこれにあたる。

ビートの技術が身についた中級者は、作家として何を書いていきたいか、作家性と向き合っていかなくてはいけないのかもしれない。

シャーマンとしての作家

神話は太古の物語であり、それを物語る語り部はシャーマンだった。

言葉や物語には神聖さが宿っていた。

現代の消費される物語では、その神聖さは忘れさられているようだが、失われたわけではない。

風評被害やプロパガンダには物語が利用され、気づかないうちに価値観を植え付けられている。

作家、とくに影響力の持った作家は、このことに自覚的であるべきだと僕は思うけど、それはともかく、創作された物語は大きな力をもつことがある。

生み出された創造物が、もはや作者の手に負えない魔物になってしまうことがある。これは科学の比喩でもある。

人類が生み出した悲劇をひとつでも連想できれば、その意味はわかるだろう。

物語にも同じ力がある。

シャーマンとは人知を超えたものと向き合う者である。

交信し、その怖ろしさを伝え、力を正しい方向へ使うように導く者。

作家は、そのために言葉を使う。

音楽をつかえばミュージシャンだし、絵具を使えば画家だが、作家は言葉を使う。

言葉を巧みにつかう技術が必要だし、ちょっとした違いが、大きな差を生むことにも意識的でなければならない。

それはエンターテイナー的に受け手を楽しませるためであり、アーティスト的に己の美学のためであり、シャーマン的に「そうでなければらない」のである。

物語の本質と向き合おうとしない作家には一生わからないだろうが。

緋片イルカ 2023.9.27

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