全否定の人・全肯定の人

ものごとを全否定する人がいる。

たとえば「タピオカミルクティー」が流行っていることに「カロリーも高くて太るだけだし、原価も安いのに高いし騙されている」などと言って、さらには「あんなもの飲む奴はバカだ」と、その行為をする人まで否定しかねない。なにかトラウマでもあるのかと勘繰りたくなる。

ものごとを全肯定する人もいる。

タピオカが流行ってるときいて、飲んでみたいとわざわざ出かけて、長時間並んだりする。味がどうであれ「おいしい」と言うだろう。

否定より、肯定している人の方が人生を楽しんでいるように見える。友達も多そうである。
一方、そういう人は幼稚にも見える。子供じみているように見えるのだ。

子供は未知の経験が多いので、いろいろなことに感動できる反面、社会のことを知らずに騙されそうになるということもある。

経験、思考力、理性といった力が備わるにつれて――つまり大人になるにつれて、ものごとを客観的にとらえて、判断する力がついてくる。大人になっても、流行に流されている人は、その判断力が養われていない、悪くいえばおバカに見えるのだ。

タピオカの流行にのるぐらいなら、まだいいが、マルチ商法の勧誘なんかにものせられてしまいそうである。

けれど、新興宗教にはまっている人は幸せそうだ。主観的には、だけど。

理性ばかりに頼って、全否定ばかりしていると、世界のすべてがわかった気になってくる。未知の体験に対しても、やる前から「どうせ、あんなものは……」とわかった気になって、やらない。やってみて感じる出逢いのチャンスを自ら捨ててしまう。結果的に人生がつまらなくなっていく。

全否定、全肯定までいかずとも小否定、小肯定する人もいる。

タピオカを「おいしい。でもちょっと甘すぎるよね」など、「でも」という逆接でひとこと付け足さなくては気が済まないというかんじ。こういう大人はけっこう身近にいる。男性に多いかもしれない。

小肯定の人は「ちょっと甘すぎる」と、いまいちだと感じても「でもおいしいよ!」とつけ加える。優しく気遣っているようにもみえるし、ときに社交辞令にも聞こえてしまうかもしれない。

否定気質だろうが、肯定気質だろうが、タピオカ程度の流行モノに対してなら個人の自由だ。

あのマンガが好きとか嫌いとかも勝手にやればいい。答えのない問題だ。
ケンカになることもあるかもしれないが、そのマンガを読んだことない人からすれば、どっちもどっちだ。

これが政治や価値観といった話題になると、なかなかむつかしい。

たとえば税金の使い道であれば、自らも払っていることなので関係ないとは言いきれない。

日本でいえば「議会制民主主義」なので、自分の考えに近い人に投票して、代わりに政治をしてもらうというのが、本来の形なのだけど、投票率の低さをみるに「誰を選んでいいかわからない」「誰がやっても結局同じだろう」といった、無関心、諦め、思考停止状態なのだろう。
それでも、国会で決まったことには全国民に影響するのだから、無関心は恐ろしいことだ、と主張している人もたくさんいる。

日本では政治や宗教については、あまり話題にしない傾向もある。ある主張をして、そういうイロの人間として見られるのを恐れたり嫌ったりする。

その反動か、「芸能人のスキャンダル」とか「マナーの悪い人」のような俗っぽい話題にはやたらと主張を展開する人がいる。とくに相手に犯罪のような「落ち度」がある場合は、正義の剣を振りかざして、自分の正しさを前面に出して、相手を断罪する。

ときに行きすぎて、自分が犯罪をしてしまうことすらある。こういう人は、全否定・全肯定のタイプだろう。

一方、小否定・小肯定の人も、誰かに乗っかることが多い。
テレビを見て、それに対して、ああだ、こうだ言う。

「○○なのはともかく、□□は違うと思うんだよね。」

などと、自分は理性的で客観的な立場を保っているようにして、小否定・小肯定する。
友達や家族と、酒でも飲みながら話してる分にはいいが、それをSNSで展開すると、見知らぬ誰かが読んで拡散し、ときに炎上する。

無責任な拡散が、誰かを傷つけていることもある。
こういうSNSという媒体を嫌って、はじめから沈黙する人もいる。

誰がいいとも、悪いともわからない。
ただ、今はこういう時代だなとは強く感じる。
その中で、何を書くべきかは、本当に迷う。それでも書きたいと思う。
書くことは、本当はすごく覚悟を求められることなのかもしれない。

ブルワー=リットンの「ペンは剣より強し」という言葉は、今は「剣」ではなくて「銃」かもしれないし、「ペン」よりも「写真」や「映像」のが強いが、本質的な「物理的な暴力よりも、精神的な暴力の方が強い」というのは、今も変わらない。

無差別、凶悪殺人のようなニュースをみていると、この精神的な暴力に、物理的に対抗するしかなかった悲しい人に見えるときがある。圧政を強いる暴君のような、明らかな攻撃対象がみつけられない現代においては、無関係な人が被害を被ってしまい、それはとても悲しいことであるけれど、その犯罪者を断罪する全否定の人、それにのっかる小否定の人は、無自覚のまま現状に加担して、沈黙する人たちも、また見て見ぬふりをしている。

こういう社会だと感じるからこそ、なにか書かなくてはいけないと、僕は思うのです。

緋片イルカ 2019/12/22

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