小説「金色の音」

 お祖母ちゃんは九十二歳で死んだ。
 わたしが小学校を卒業して、中学に入る春休みのことだった。
 もっと小さい、保育園の年長ぐらいの頃は手を繋いで近くの公園に連れてってもらうのが大好きだった。
 お祖母ちゃんはちょっとした植物博士で、
「これ、なあに?」
 次々と植物を指差し訊ねるわたしに、
「あれはね……」
と、ひとつひとつていねいに答えてくれた。花だけじゃなくて樹木や雑草みたいなものまで、なんでも知っていた。
 校外学習で荒川の土手に行ったときにシラユキソウと覚えていた花がシロツメクサであると先生に直されたことがあった。
 友達に笑われた気恥ずかしさとお祖母ちゃんを信じたい気持ちから、シラユキソウだと譲らなかった。先生は次の日に図鑑のコピーを持ってきてくれて、シロツメクサとは別に、本当のシラユキソウなる植物の写真も見せられて納得するしかなかった。
 大人になって、ふと思い出して、もしかしてシラユキソウというのは古い呼び方だったのかもしれないと思って検索してみたことがあったけど、やはりシロツメクサはシロツメクサだった。
 お祖母ちゃんが間違えていたということになるが、ひょっとするとお祖母ちゃんは植物博士なんかじゃなくて、聞かれるたびに、思い付きで名前をつけていたのかもしれないという気もする。いつも同じ公園に行っていたのに、わたしは植物の名前をぜんぜん覚えられなかった。それはお祖母ちゃんの教えてくれる名前が毎回ちがっていたからなのかもしれないという気がする。わたしの方でも、それをあそびと思って、
「これ、なあに?」
と、わざとやっていたのかもしれない。
 そんな気がするのだが、はっきりとは思い出せない。
 小学校に入ると新しい友達ができた。
 学年が上がるにつれて興味も遊び方も変わっていって、お祖母ちゃんと散歩に行くことはなくなった。
 お祖母ちゃんの方でも階段で踏み外して左足首を骨折してから外に出たがらなくなったし、同じ家に住んでいても話すことすらほとんどなくなった。
 ある日、お祖母ちゃんが最中を食べていて、口の中でくちゃくちゃとやって、なかなか飲み込めないようだった。
「お茶いる?」
 母が訊ねてもお祖母ちゃんは前を向いて、くちゃくちゃやっていた。
 母はお祖母ちゃんの耳元へ寄って、
「お茶のみますか?」
と、句切るようにしながら言った。母の声が大きくて、わたしはびくっとした。母が怒っているのかと思った。
「いいよいいよ」
 お祖母ちゃんは許すように頷いた。
「どっちなのよ」
 母が湯吞みを置くとお祖母ちゃんは黙って飲んでいた。
 やれやれというかんじで母がわたしを見て唇の端を片方だけ吊り上げて笑った。

 その母がいま病室のベッドで眠っている。
 お祖母ちゃんが亡くなった年より十も若いけど、病気のせいかひどく弱って見えた。
 死んだように微動だにしないが、さざ波のように上下する胸で呼吸しているのがわかる。鼻からチューブがさしこまれている。自力で生きる力はもう残っていないのである。
 わたしは二時間ほど、ここに座って呼吸を眺めていた。こういうとき、言葉をかけてあげるのが、本当なのだろう。
 五感のなかで聴覚は最初に産まれ最期まで残っているという。赤ちゃんは母親のお腹の中で聴いているし、死ぬときも反応ができなくても言葉だけは聞こえているという。
 だけど何を言えばいいのか、わからなかった。
 窓を閉め切った個室は沈黙だった。沈黙のなかにわたしは母と二人取り残されている。

「お祖母ちゃん呼んできてくれる?」
 油の泣く鍋から天ぷらを上げながら、母がわたしに頼んだ。
「え?」
 その言葉は聞こえていたし、意味することもわかったけど、わたしは思わず声をあげた。
「もうすぐぜんぶ揚がるから、呼んできて、お祖母ちゃん」
「ええ~」
 わたしは読んでいたマンガ本のせいで行きたくないふりをしたが本音はちがった。
「いいから、はやく、お願い」
 急かされて、仕方なくわたしは炬燵から脱け出した。
 お祖母ちゃんの和室はダイニングキッチンの隣りだったから、知らせるだけなら廊下から声をかければ済むのだけど、その頃のお祖母ちゃんは耳だけでなく眼も悪くなっていた。呼んでくる、というのは付き添って連れてくることだった。
「お祖母ちゃん」
 わたしは子供らしい声をあげながら襖を引いた。すぐに線香の匂いが漂ってきた。
 お祖母ちゃんは仏壇の前で合掌していた。
「お祖母ちゃん、ごはんだって」
 返事はなかった。
 家を建て替えてから、お祖母ちゃんの部屋にはほとんど入ったことがなかった。前の家では無遠慮に入って小遣いをせがんだりしていたけど、うまく話せなくなったお祖母ちゃんを他人のように感じるようになってから、許可なく入ってはいけない場所になってしまった。
 お邪魔します、とまでは言わなかったが、初めての友達の家にあがるような気持ちで、わたしは踏み込んだ。畳が柔らかかった。
 わたしはお祖母ちゃんに近づいていって、気配を察してこちらを向いてくれないかと期待したけど、お祖母ちゃんはお地蔵さんのように固まったままだった。
 腰を屈めて顔を覗きこんだら、ぎくりとした。お祖母ちゃんは眼を開けていたのだ。
 何を凝視しているのかと視線を追うと金色の器が置かれていた。その頃のわたしは仏具の鈴という呼び名こそ知らなかったけれど、小さな頃に戯れに叩いて喜んでいたので、その甲高い音色は想像できた。
 お祖母ちゃんに顔を近づけた。わたしの姿が視界に入っているはずなのに、お祖母ちゃんの瞳は嵌め込まれたガラス玉のように動かなかった。
 お祖母ちゃん、死んでる。わたしは直観した。テレビドラマで殺された人が眼を開けたままになっていて、発見した人がまぶたを閉じてやるシーンが浮かんだ。お祖母ちゃんはもう死んでいる。
「もう、何やってんの」
 背後から母の声がした。母はずかずかと入りこんできて、
「おばあちゃん、ごはんですよ?」
 と、お祖母ちゃんの肩を揺すった。
 わたしは母がお祖母ちゃんの死に気づくと思ってひやひやしていたが、お祖母ちゃんはゆっくりと母の方を見上げた。
「ごはんですよ?」
 もう一度、母が言った。それから肩を貸すようにしてお祖母ちゃんを連れて行った。
「あんたも早くおいで、冷めちゃうよ」
 金色の鈴を鳴らした後の余韻のようにわたしだけが残された。

 わたしはイスから立ち上がって昏睡の母の耳元に口を寄せた。
「おかあさん……」
 次の言葉がつづけられなかった。わたしには母のように沈黙を破ることはできないのはわかりきっていた。
(了)

(緋片イルカ2019/03/21)

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