書籍『新しい文学のために』①基本的手法としての「異化」まで(1~4章)

新しい文学のために (岩波新書)

目次
書籍『新しい文学のために』①基本的手法としての「異化」まで(1~4章)
書籍『新しい文学のために』②文学は世界のモデルをつくるまで(5~8章)
書籍『新しい文学のために』③神話的な女性像まで(9~13章)
書籍『新しい文学のために』④新しい書き手へまで(14~16章)

同作会の人と、一人では読んだり理解したりするのに大変な本を、数章ずつ読み進めて、話し合う「研究会」を始めた。
その一冊目として、大江健三郎先生の文学論の一つである、この『新しい文学のために』を選んだ。

大江先生の本で「文学論」に詳しいと言われる本が三冊あるらしい。
一冊目が『小説の方法 (〈特装版〉岩波現代選書)

二冊目が本書で、三冊目は『私という小説家の作り方(新潮文庫)』らしい。

本書『新しい文学のために』は1988年の本で、もう30年以上前になるが、その中に以下のようにある。

僕は十年前にもまさにそのように考えて、『小説の方法』という本を書いた。いま、それをもっとハンディな形式、新しい内容に書きあらためることをめざして、この本を書く。(p.5)

本書から十年後の、1998年に三冊目の『私という小説家の作り方』が書かれている。

つまり、大江先生は10年おきに文学論についての本を書いていることになる。いずれ、変遷についても研究したいと思っている。

来年の4月には読書会で『M/Tと森のフシギの物語』をとりあげる予定なので、それまでに少しでも見識を高めたい。

以下は、第1章~第4章までの気になった文章の引用と、それに対する感想。

神聖にして犯すべからざる確信の上に建てられた世界においては、小説は死ぬ。全体主義的な世界とは――それがマルクス主義に、あるいはイスラムの教理に、またいかなるものに根ざして建てられたものであれ――問いかけ(クエスチョンズ)よりはむしろ答(案サーズ)の世界です。そこには、小説に居るべき場所はありません。(p.11)

引用箇所はミラン・クンデラの言葉だが、大江先生の代弁として引いているところ。
これには同感で、まさにそういうことだと思う。
書籍『感じるオープンダイアローグ』を読んだときにも「答え」よりも「問いかけ」が重要という視点は、今後も大事にしたいと思っている。
構成論でいえば、三幕構成は「答え」を出して、場合によっては押しつける力がある。
だからこそ、人を惹きつけて、ときに圧倒する。エンタメやプロパガンダには都合のよい構成であるが、文学の立場からは、そのこと自体に疑問があって、何とか乗りこえたいと考えている。

小説や詩は、日常・実用の言葉の意味と音を生かしながら、文学表現の言葉独特の鋭さ・重さを発見し、定着させる作業ともいえるだろう。(p.17)

これは「異化」の作用を端的に表した一文だと思った。
書籍『文学とは何か――現代批評理論への招待』①序章を読んで「異化」は文学の本質ではなく「文学性の定義」に過ぎないという考え方に合点がいっているが、むしろ文章技術を考える上では、おおいに参考になる。

様ざまなレヴェルにおいて文学作品を読む手つづきを、意識的にやることは意味があるにちがいない。(p.22)

これは意識的に分析することと受け取れる。
全体の三幕構成→ビート→さらにキャラクターアークや、イメージアイテムの使用など演出面まで「読む」ことは、小説でも同じだし、書く上での言葉の選び方にも反映される。
むしろ、そのあたりは現代の方が発達していると思う。
「様ざまなレヴェル」についての具体例は引かないが、縦方向についてしか語られておらず、横方向への視点が欠けているということを、研究会で指摘されていた。僕の意見ではないが同感だった。
ただし、横方向のつながりがどういったものかは、バフチンを読めていないのではっきり理解できていない。

芸術の目的は、認知つまりそれと認め知ることとしてではなく、明視することとして、ものを感じさせることだ、という考え。(p.32)

この引用箇所はシクロフスキーの言葉を引いたあとの要約。
ただの情報伝達ではなく、「異化」して「ものを感じさせること」が「文学性」(リテラレリネス)の一種だと思う。
しかし、「読者の能動的な行為」を促すため「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法」(p.34)をもちいるのは疑問がある。
これはフォルマリストの考えを踏襲しているだけで、時代遅れに感じる。現代では通用しないと思う。
ただ、この考えの元に書かれた大江先生の小説自体が、どういう効果を生んでいるかは、作品そのものを読んで検討しなくてはならない。

小説は、それを読む人間に、当の小説が作られてくる過程を経験させる。小説を読み終わった時、かれの手にあるものは、いわば残りカスであって、そこにいたるまでかれの経験したことそのものが小説である。(p.37)

読者に「異化」作用を起こすということの、わかりやすく説明している一文だと思う。
同時に、構成に対するヒントも感じる。すなわちリテラレリネスを帯びてくるシーンに向かって構成していくことであり、それは物語の根本価値ともいえる「リワード」にもつながる。

ある抽象的・概念的な言葉を「異化」するやり方として、それに肉体を感じさせるという効果も成立している。悲しみという言葉を示すことで、具体的に悲しんでいる肉体を感じさせうるなら、その文脈において、悲しみという言葉は「異化」されているのだ。(p.45)

肉体表現の重要性は文章テクニックの記事でも、いくつか書いた。
他の書き手にはあまり知られないで欲しい、と思ってしまうぐらい、その効果はとても大きい。
とはいえ、知っていても反映しきれている作者は少ないとも思う。諸感覚に対する感受性の問題だろう。ただ肉体表現を用いるだけでは、その効果は発揮されない。

わが国の文学の世界ではあまりいわれぬことだが、ひとつの文章には声voiceがある。ある文章を読めば、それが独自の文体家のものであるかぎり、それ独自のvoiceが響いているのを感じさせられるものだ。実際には、その作家の肉声を聞いたことはないにもかかわらず。(p.49)

抽象的な表現ではあるが、とても掴みやすい文章だと思う。
文字情報が、肉体性を帯びたときには、それは声になるとも言える。

これらの声は、書き手がそれぞれに文章レヴェルで行なっている「異化」を、僕らが能動的にどうとらえているかのしるしである。(p.50)

この文章に書かれていることは、知覚においては知っている。しかしこれまでそれがこのように書かれているのを見たことがない。このように実感したこともない。それは見なれない、不思議な書き方であって、しかも確かにこれは真実だと実感される…… これが「異化」ということを見る、ひとつの指標である。(p.50)

ひきつづき、本書を研究していきます。

緋片イルカ 2021/12/30

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