書籍『文学とは何か――現代批評理論への招待』①序章

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

欧米の文学理論の諸潮流を初心者にも分かりやすく解説するすぐれた入門講義。上巻では文学理論が対象とする「文学」とは何かを問うことから始め、十九世紀の英文学批評の誕生、現象学・解釈学・受容理論、構造主義と記号論について詳細に論じる。明確な視座に立ち、読者の思考を刺激し触発する、「二十世紀の古典」。(全二冊)(Amazon商品解説より)

スッと流し読みして理解できるような内容ではないが、きちんと読めばすんなりと入ってくる。内容は刺激的で、目を開かされる。まさに「すぐれた入門講義」。ひとつめの序章だけで、なるほどと思うことがたくさんあったので引用しながら、まとめておく。※以下の引用はすべて上記の本より)

まずは「異化」の話。

文学は、日常言語を変容させ濃密にし、日常的発話からシステマティックに逸脱する。(p.27)

フォルマリストたちは、文学作品を、さまざまな「技巧(デヴァイス)」[「方法」「仕掛け」「装置」などとも訳される]の恣意的な集合とみるところから出発する。そうして、あとになってから、こうした技巧を、テクストの全体システム内で相互に関係づけられた諸要素あるいは「機能(ファンクション)」としてみるようになった。「技巧」には、音韻・イメージ群・リズム・統語法(シンタクス)・韻律・押韻、語りの技法(ナラティブ)などが含まれる。いうなればこれは文学の形式的要素の全在庫リストといったところだ。またこうした要素すべてに共通するものとして挙げられたのが「異化」効果[’estranging effect’あるいは’defamiliarizing effect’と英訳されている]である。文学言語に固有のもの、文学言語を他の言語形式と区別するもの、それは文学言語が日常言語をさまざまな方法で「歪める」ことである。文学的技法によって圧迫されることで、日常言語は、緊密になり、濃密になり、捻じ曲がり、圧縮され、引き伸ばされ、転倒される。文学言語とは「異様(ストレンジ)なものにされた」言語のことであり、この異化によって、今度は、日常世界が突如として見馴れぬものとなる。(p.31)

文学を考える上で「日常を異化する働き」というのはとても重要であると思う。一方で、著者はフォルマリズムの限界も指摘していく。

ある言語の断片が「異化」されているとしても、そのことが即、どんな場合にも、どんな場所でも、それが異化作用を発揮するという保証にはならない。異化作用は、規範となる言語的背景との対比によってはじめて機能するものであって、規範が変われば、その作用も停止し文学と認められなくなるだろう。たとえばイギリスのパブでは誰もかれもが「汝、いまだ犯されざる静寂の乙女よ」といった語句を口にする習慣があるとしたら、この語句は詩的なものとは感じられなくなるだろう。言い換えれば、フォルマリストたちにとって、文学を文学たらしめる「文学性literariness」とは、複数の異なる言説間の差異の関数=産物(ファンクション)なのであって、永続的に固定される属性ではない。結局、彼らが着手したのは「文学(リテラチャー)を定義することではなく「文学性(リテラレリネス)」つまり言語の特殊な用法――を定義することだったのだ。(p.34-35)

これは単純な話で、文化的な背景が違えば、ある地域で日常で使われている言葉が、別の地域の人間からすれば文学的に聞こえてしまうということ。

「文学」とは、著述が人間にどのような働きかけをするかという問題[喜ばせる、悲しませる、感動させるなど]ではあるけれども、同時に、人間が著述をどう扱うかの問題でもあるかもしれないということだ。(p.38)

「人間が著述をどう扱うか」とは、読者がどう読むかということ。看板や注意書きのようなものでも、こちらが詩的に読もうとすれば、そう読めてしまうということ。

最初は歴史書か哲学書として登場し、その後、文学にランク付けされたような作品もある。最初から文学として読まれても、時がたつにつれて考古学的な価値が認められるようになったものもある。生まれたときから文学であったテクスト、文学性を獲得したテクスト、意に反して文学性を押し付けられたテクスト。結局、重要なのは、生まれ(バース)ではなくて、育ち(ブリーディング)であると言えそうだ[「氏より育ち」ということわざのもじり]。あなたがどういう家庭に生まれたかは問題ではない。どういう育て方をされたのか、どういう扱いを受けたのか、それが問題だというわけだ。もしもあなたが、誰かから文学であると認定されてしまうと、あなたが自分自身のことをどう考えているかなど、いっさいお構いなしに、あなたは文学とみなされてしまうのである。(p.42)

文学であるためには著述が「名文」である必要はなく、ただ良いとすでに判定済みの種類に属してさえいればいいわけだ。(p.46)

誰かが口に出したりするようになった評判とはいっさい無関係に、それ自体で価値ある文学作品とか文学的伝統といったものは存在しない。(p.48)

誰かが「文学」と呼んでいる。その影響を受けて「文学らしいもの」として認定されていく。作品(テクスト)そのものが文学性といったものを持っているのではなく、読者が「文学として読む」から文学になる。
それがフィクションであるか、事実であるかも問題としない。

事実の陳述もひと皮剥けば、そこには数多くの価値判断が潜んでいる。事実を述べるということは、とりもなおさず、そうすることが価値のあること、そうすることが他の行為よりも価値のあることを認めていることになる。(p.52)

私たちの客観的で記述的な陳述すべては、価値の諸カテゴリーの、しばしば不可視の網の目のなかで生起し機能している。この価値カテゴリーを欠くと、私たちはお互いに言葉を交わすことすらできないというのが実情なのだ。(p.53)

文中にはわかりやすい例がいくつも挙げられて、理解を助けてくれる。
そして、章末は以下のように結ばれる。

これまで明らかにしたことをまとめておけばこうなるだろう。文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役に立つもろもろの前提のことを指す。さてこれが、あまりに突飛な結論だ、私の個人的偏見だと考えるむきもあろうかと思われるので、次に、このことを、イングランドにおける「文学(リテラチャー)」[教育の場における科目としての]の誕生を語りながら逐一確かめてみることにしよう。(p.58)

こうして「第1章 英文学批評の誕生」へと続いていく。続きを読んだら、また、まとめると思う。

緋片イルカ 2021/12/29

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