書籍『新しい文学のために』②文学は世界のモデルをつくるまで(5~8章)

新しい文学のために (岩波新書)

目次
書籍『新しい文学のために』①基本的手法としての「異化」まで(1~4章)
書籍『新しい文学のために』②文学は世界のモデルをつくるまで(5~8章)
書籍『新しい文学のために』③神話的な女性像まで(9~13章)
書籍『新しい文学のために』④新しい書き手へまで(14~16章)

研究会2回目。5章~8章を読み解いた。

日常・実用の言葉が――それもあらかじめ文学のために準備されたしるしはついていない言葉が――、文学表現の言葉として作品のなかで力を発揮する。日常・実用の言葉の日頃のあり方のまま社会生活で用いられる場合とはことなった、豊かで生きいきした役割をはたす。働きぶりがあまりに印象的で、その言葉は当の文学作品の一節として僕らの胸うちにきざまれ、もうそこから切り離せないということまでが起る。そうしたことがどのようにして、可能なのだろうか?(p.56)

「しるし」のついた言葉とは詩や短歌で使われるような言葉や、文語的ないい回し、漢語、古い成句など。
それとは別の「しるし」のついていない日常語が、リテラレリネス(文学性)を帯びることは、すなわち、「異化」作用が起こることだといえそうだ。
そういうことを起こすには、どういう手法がありえるのか?

まず言葉のレヴェルで「異化」してゆくことにおいて、さらには文節・文章・ある文章のかたまりとう仕方で次つぎに「異化」してゆくことによってである。自分で文章を書きながら、そこでひとつひとつの言葉が「異化」されているかどうか、確かめることは難かしい。言葉を書きつけながら――あるいはいったん書いた文章を読みかえし、書きなおしして、鉄を熱して叩くように錬成してゆきながら――、その言葉が、また文章が「異化」されているかどうかを見て行く。「異化」されていない、と感じられれば、書きなおす。
 その能力を養うためには、すでにある秀れた文学作品を読んで、それがいかに「異化」された言葉、「異化」された文章によってなりたっているかを見る訓練の必要がある。「異化」された言葉は、ものの手ごたえをそなえている。もともと僕らには、そのような言葉からものの手ごたえを感じとる能力がそなわっている。(p.57)

「異化」された言葉は「ものの手ごたえ」をそなえているという考えは、僕の中では「リアリティを持った言葉」という言い方でシンプルに理解される。
ただ、それは客観的なリアリティ、写実的なリアリティではなく、書き手の主観を伴ったリアリティである。

離れ島の小さな村落共同体に代々暮し、文章を読んだり、書いたりすることもほとんどなかった、というような人たちからの聞き書きが、「異化」され、独自の声voiceを持ち、忘れがたい文体をそなえていることがある。それはかれらが狭い村落共同体のなかの日々の話し合いで――それは生活の必要から出た、まさに日常・実用の言葉によってにちがいないが――自分の言語表現をきたえてきたからであろう。また日々の生活において、自分をかこむ事物と言葉とのつきあわせを切実に行なっているからであろう。もとより自分をかこむ事物を越えるものと言葉とのつきあわせ、ということもある。祈りの言葉や、神話・民話の言葉を考えれば、それはくっきりしてくる。(p.60)

ケネス・バークの『文学形式の哲学』からの引用のあと「文体化(スタイライズド)」について触れられている。

ひとつの作品のなかの言葉・文章は、その書き手の態度を根底にひそめている。たとえば、喜劇化して、対象への批判をこめて書く、というような態度を、表層では見ぬかれまいとして、よく考えたしくみで書くということがある。逆に、自分の考え方やねがいを、できるだけ素直に訴える仕方で書く、という態度がある。
 この両者では、ひとつの言葉がアイロニーであったり、もっともナイーヴなものであったりするちがいが生じる。つまり言葉はそれぞれにことなった戦略をあたえられ、それにしたがって文体化(スタイライズド)されているのである。ある作品ごと、それを読み進むにあたって、僕らはその書き手の戦略を把握することなしには、正確な読みとりができない。そうでなければ、上質なアイロニーなどまずくもちれない。
 あらゆる文学作品が、独自の方向づけをあたえられ、戦略づけられ、文体化(スタイライズド)されている。作品そのものが、大きい方向づけにしたがって、「異化」されているというわけなのだ。(p.64)

「戦略」「文体化」といった、それ自体、異化されたような言葉が使われているが、これも、シンプルに捉えてしまえば「テーマ」と「スタイル」といったことだと感じる。
スタイルは、僕自身の考え方に引き込むならストーリーサークルの「視点」が「描写」や「構成」に働き掛けている領域。

「テーマ」や「スタイル」というレベルと、文節や文章レベルでの用い方が、共鳴するように描くことは、とても大変で、難しいことでもあるが、物語の基本であるのは言うまでもない。
レベル間での共鳴が起きていれば、文章レベルで「異化」して、「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法」(p.34)する必要はないと、僕は感じる。

共鳴している物語は「リアリティ」を持っている。
リアリティとは、現実のように感じるという客観的な意味でのだけでなく、作者が伝えようとしている「テーマ」を内包している。

想像力の働きということは、本当によく理解されているだろうか? 想像力という言葉を知的な道具のように僕らが使う時、この道具の性格や性能をよく知って使っているだろうか?(p.66)

この問いかけから、6章「想像力はどんな働きをするか」が始まる。
物語とは、作者が感じる世界を、テクストを触媒として、読者の心に描くことであるから「想像」について考えてみることは、とても重要だと気付かされる。

自然に対してであれなんにであれ、対象に向けて心を開いてゆく、その根本の力は想像力だと、僕はあらかじめいっておきたい。(p.72)

この一文は、まさに僕の「想像力」を刺激した。

いくつかの箇条書きメモ
・一般的に使われる想像力という言葉は「映像描写力」と「展開予想力」といったものに分けられる。
前者はイメージング能力ともいえるような映像を描きだす能力。「青い薔薇」と言われたときに、それを見たことがなくとても「青い」という色の記憶と「薔薇」という植物の記憶を組み合わせて、青い薔薇をイメージすることができる。
後者は物理法則を理解することにも似ている。手につかんだリンゴを話せば、落下する。それは地球という環境に住む中で、当たり前と思って身につけた(自動化された)ものだが、宇宙に行けば変わる(異化される)。人間の性格、感情などにもある種の法則性がある。
・物語を通して「読者を異化すること」と「主人公を異化すること」は関連している。
・主人公の異化は、非日常体験であるアクト2、さらにはリワードを通して、変化がなされる。すなわち「異化」された者は変化するとも言える。
・トリップシークエンスは物語内での異化シーン。

文学表現の言葉の書き手は、ただ言葉のみを用いてその「異化」をめざし、想像力を喚起するしくみをつくる。試みが成功する時、バシュラールがいうとおりに、それらのイメージは生きている言語の生命を生きる。人はそれが、たましいと精神を刷新するあの内密なサインによって、生ける叙情性のなかでそれらのイメージを体験する。(p.86)

「想像力を喚起するしくみ」こそ文章技術の本質ではないか。
具体的な方法は書かれていない。それは読者と作者の感覚に依存する部分が大きく、一辺倒にこうすればいいというものではないが、技術的なポイントは見つけていくことができると思う。

第8章「文学は世界のモデルをつくる」では、物語が読者に与える影響(異化でもある)から、文学が社会へ及ぼす影響、役割といったことが書かれているように感じた。
つかみきれていない部分も感じる。

文学の期待の地平が歴史的な生の実践の期待の地平よりもすぐれているのは、それが実際の経験を保存するばかりか、実現されなかった可能性を予見し、社会的行動の限定された活動範囲を、新たな願望、要求、目標に向かって押し拡げ、それによって未来の経験の道を開くからである。(p.92)

これはドイツの文芸理論家ヤウスの『挑発としての文学史 (岩波現代文庫)』からの引用。
この部分は大いに共感できた。

ソヴィエトの文芸理論家ユーリー・ロトマンの理論として『文学理論と構造主義』からの要約は、引用の意図がいまいち理解できなかった。
文学は世界のモデルであるということは、読書体験は、世界の疑似体験であり、教訓を学ぶ場でもあると言い換えられる。
論文として主張するには、論理的な説明が必要なのかもしれないが、ヴァーチャルリアリティを体験できる現代人では、小難しい説明がなくても、感覚的に理解できる。

十九世紀の大作家たちは――たとえばトルストイやドストエフスキーは――、確かに右のようなモデル形成の原理を実現化した。しかし二十世紀の小説の歴史は、そのように巨大なモデル形成の能力をしだいに衰弱させる過程ではなかったか? 今日の文学の世界モデルは、矮小化され、分断され、むしろその断片化した小さな部分のモデル作りにのみ作家は専心しているようではないか?
 この批判は、おおかたあたっているにちがいない。むしろ二十世紀の小説の不幸として、衰退の実体を正直に認めるためにも、まず文学の根本の原理としての、モデル形成の能力を見つめなおしておく必要がある。僕らの時代の文学がおちいっている世界モデル作りの貧困化を見きわめた上で、あらためてその能力の恢復をめざす新しい読み手の、「期待の地平」こそが作りだされねばならない。そこへ向けての、新しい書き手の努力がなされねばならないのである。ナポレオンの戦争の時代に対して、核兵器による世界壊滅の戦争の危機においしひしがれている今日、もっとも切実に必要な世界モデルはあきらかではないか? それをいかに文学表現の言葉で達成しうるのか?(p.102)

2021年が終わろうとしている今、僕はこれを書いている。いまは21世紀である。
核戦争による世界解決の危機は、いまだ失われていない。日本ではあまり言われなくなってしまった論説だと思う。日常化(自動化)してしまったのだ。イランや中国に目を向けるだけで、いまだ続いている問題であるのは言うまでもない。
一方で、大江先生が本書を書いていたとき以上に、温暖化をはじめとする自然破壊や、格差による分断、ネットワークやデバイスの発達による便利さと危うさなど、いまの作家がとりくむべく「世界モデル」があると思う。

それが何かという問題意識をもちつつ、つづきを読んでいこうと思います。

緋片イルカ 2021/12/31

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