書籍『新しい文学のために』④新しい書き手へまで(14~16章)

新しい文学のために (岩波新書)

目次
書籍『新しい文学のために』①基本的手法としての「異化」まで(1~4章)
書籍『新しい文学のために』②文学は世界のモデルをつくるまで(5~8章)
書籍『新しい文学のために』③神話的な女性像まで(9~13章)
書籍『新しい文学のために』④新しい書き手へまで(14~16章)

研究会4回目に向けて、最後の章までを読み解いた。

14 カーニバルとグロテスク・リアリズム

バフチンのポリフォニックな表現の説明につづいて、以下のようにある。

私小説を源流とする、単一な声による表現を中心に置いてきた日本文学において、新しい書き手たちは、この課題をよく考えてみなければならないだろう。(p.181)

これはモノローグ小説ということをバフチンの意味とは違えて、表面的な捉え方をしている。
三人称で書けばポリフォニックになるという訳ではないし、私小説でもポリフォニックな表現は可能。

バフチンのグロテスク・リアリズムの定義を見ることでもあきらかになるのは、それが文学全体の定義たりえているということではないであろうか? 文学表現の言葉は、概念的・抽象的な言葉を、「異化」することによって作りかえる。ものの手ごたえのある言葉とする。それは単一な意味ではなく、多様な意味をはらんだ言葉とすることである。(p.185)

前回の研究会の話し合いのなかで僕の考える「剥離」という考え方は、「異化」ということと同じなのではないかと思うと語ったが、違うと言われて納得した。

この大江先生の言葉を受けるなら「異化」が「多様な意味をはらんだ言葉とすること」であれば、僕が目指すべきと考える「剥離」は言葉から意味そのものを剥ぎ取ってしまうこと。

「読者に実存的な不安を喚び起こす」という表現も近い。

僕はそれこそが、真に神話的な力であると思っている。

ただ、言葉の定義はともかく、その後の章で展開される大江先生の文章から感じるものには、同等の深さを感じる。

「グロテスク・カーニバル」という理論?考え方?は、僕はあまり興味を引かれない。

『罪と罰』から引用しているシーンなどは、テクニックとして用いている種のものである。

低俗な言い方をしてしまえば「ギャップ」とかか。

「人物が悲しいとき」に「雨を降らせる」といった手法はベタなドラマでやられるが、むしろ「楽しいパーティー」などに人物を配置してやった方が、悲しさが引き立つ。

アンバランスさ、不謹慎さが、リアリティをもって、感情を引き立ててる。

ブラックジョークでも同様の効果を生むことがある。

以前に舞台で、兵隊が戦死する際のセリフに「まんじゅう……」というのを書いたことがある。

ストーリーの前半に「まんじゅうう食いてえな」というフリを入れた上での、臨終の言葉であるが、これを「笑い」のように捉えた人がいたが、シリアスなアクションシーンの中で死んでいくときのセリフなので、笑える雰囲気ではない。

このセリフを書いたときに思ったのは、ただ、人間が死ぬときって、きれいな想い出などではなく、夢を見るように自分でも、よくわからないものがフッと浮かんで、死んでいくのではないかと思った。自分へと飛んでくる銃弾が「まんじゅう」を連想させたかもしれない。

エンタメの構造上、メインキャラに吐かせられるセリフではないが、こういう一言が、耳につくことはあると思って、そういった効果を狙って書いたものだ。

このセリフに良くも悪くも違和感をもった人がいたら「死」というものを「異化」できたことになると思う(剥離はされていない)。

そういった「異化」あるいは「既存の価値観の崩壊」のようなシーンをつくるのに「グロテスク・カーニバル」という場面は関係ないと、読んでいるときは思ったが、いま、これを書いていて、僕の書いたセリフはまさに「戦闘中」というの「グロテスク・カーニバル」の最中でのセリフであったと気付いた。

「グロテスク・カーニバル」という状況は、個の尊厳を無視した勢いがあり、そういった空気から外れている人間は、ズレた発言をするだろう。

そういうシーンを入れること(構成上、そういう状況をつくること)が、「グロテスク・カーニバル」状態をつくるというテクニックになる。

大江先生の言う「それが文学全体の定義たりえている」というのは言い過ぎだと思うが、方法論としては面白い。

作中で引かれていた井伏鱒二の『かきつばた』は読んでみたいと思った。

15 新しい書き手へ(一)

おもに『集落の教え100』という本をヒントに文学に適応している。この本自体も読んでみたいと思った。

全体的に方法論に通じる内容がが多いように感じた。
知っている、わかっていると感じるものも多かったが、気になったところは引いておく。

読み手の側からいえば、小説が進行しはじめてすぐ、そこにひとつの場所を感じとり、その場所のなかで、いちいちの言葉・イメージが位置づけられている――磁気を帯びさせられている――、と感じとりうることが重要である。書き手との相関を表面に出していうなら、その場所を作る者としての書き手の存在を、小説の背後に見きわめうることが、読み手にとって、その小説と自分を結びつけることなのだ。(p.193)

これは読者の想像の中にできる「場」の話。
きちんとセットアップするということとも重なるが、ここに「いちいちの言葉・イメージが位置づけられている」ようにつくり上げることは、とても大切と、改めて重要度を感じた。(フォアキャストと繋がるものも)。

僕は『小説の方法』で、小説のイメージの分節化ということをのべた。小説のシーンが様ざまに展開されて行きながら、文章としてその全体が切れめなくつながっているものがある。そうしたあり方を、僕は分節化がよくでてきていない書き方と感じる。ある長さの文章・パラグラフにおいて、ひとつのイメージのかたまりを作る。そのようにして分節化したイメージを、かたまりからかたまりへ連結する。それをつうじて、小説の全体が作りだされる。(p.194)

この本だけはでは「分節化」というのが、理解できなかった。
小説にとって、いいことにも悪いことにも聞こえる。
文章として「切れめなくつながっている」ことは読むということに関してはいいと思う。
「場」という話とつなげて言うなら、「場」の引力に読者を引き込むような。

あるいは構成レベルの話をしているのだろうか?

『小説の方法』は買ったが、いま、手元にないので、戻ってきたら、今度、確認しよう。

既成の秩序に対して、できるかぎり大きくへだたった、矛盾の場所から出発する。現にある秩序への、できるかぎり強い否定から出発する。その時はじめて、強力な想像力のジャンプが可能になる。そのジャンプの高さ・長さが、自分のものとして作りだされる新しい秩序としての、作品を決定する。秩序――反・秩序――新しい秩序という段階を、想像力においていかに振幅の大きいものにしうるか?(p.196)

「秩序――反・秩序――新しい秩序という段階」はまさに三幕構成。
「ジャンプの高さ・長さ」はリワードの深さで、それが「新しい秩序としての、作品を決定する」は、表現こそ違えど、物語の本質を言い当ててるように思う。

一般には言葉は、一義的な意味をあらわす。いかにそれを多義的な意味をふくみこむものとして「異化」するか? それは一義的なものから、多義的なものへと、想像力的な次つぎのイメージの爆発を、言葉にしこむことである。
 それを場所にうつしてあらためて見るなら、小説において多義的な場所を作りだすことは、真に重要な操作である。
(中略)
 多義的なものを、その異なり、矛盾するところをわざわざ露呈するように表現する。それも、意識的に行なわれるならば、確かにひとつの技法であるにちがいない。しかし小説という有機的な全体において、それがなめらかな秩序を保っているということは、読み手との自由な交通を準備するために必要なことだ。様ざまな、グラデュアルな変化のいちいちを分節化しながら、しかもそれらを全体のなかに、自然に混在させることは、小説の層を厚くし、奥行きをますために有効の操作である。
(中略)
 意識的に自分の書く小説世界の多層化をめざさなければ、小説の文章は一義的なひとつの世界のみをあらわすことになる。小説に多義的な表現を作りだすべくつとめることは――それは多義的な表現を読みとるべくつとめることにもかさなる――よりひろげて、自然な状態に放っておけば、単純化・一様化への方向をたどる、日常的な思考様式のくせと戦う訓練ともなりうるものである。(p.197-198)

ほかにも、良いと思う部分がいくつもあったが、同感というばかりで、特別な刺激を受けなかった(刺激は「僕とは違う」「僕の知らないものについて言っているかも」という違和感に基づく)。

15 新しい書き手へ(二)

この章は主に大江先生の次作への思い、作品やテーマへどう向き合っているかが丁寧に語られていると感じた。
文学の理論・方法論の良し悪しはともかく、一人の作家として真摯にテーマに向き合おうとしている姿勢には強い共感を覚える。

五十歳を過ぎた作家として、子供じみたいい方と受けとめられるかも知れないが、希望か絶望か、と問われる際には、僕はとりあえず希望の側に立ち、人間の威厳を信じる側に立つ。(p.213)

この一文は、率直に好き。

緋片イルカ 2022/01/15

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