ざっくり読書10『こちらあみ子』今村夏子


あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。(Amazon商品の紹介より)

芥川賞受賞作の『むらさきのスカートの女』を読書会であつかったため、今村夏子さんの代表作を読みました。(『むらさきのスカートの女』の三幕分析はこちら

『こちらあみ子』は今村さんのデビュー作で2010年の作品。三島由紀夫賞も受賞しています。
ネタバレしない程度に、引用しながら魅力を伝えていきたいと思います。

冒頭の文章が堅くて少し読みづらいのですが、すぐに今村さんらしい文体になっていきます。

さきちゃんは近所に住む小学生で、あみ子の家へ遊びにくるときはいつも竹馬に乗って登場する。

さきちゃんに「イーしてください」と言われればイーしてあげる。イーッと、口を横に広げるとのぞく、あみ子の暗い穴がさきちゃんのお気に入りだ。あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。初めて気がついたとき、あきちゃんは「うひゃあ」と言って両手で口を覆って笑い転げた。そして訊いてきた。「なんで歯なくなっちゃんですか」という質問に対して、中学のとき男の子のパンチされてどっか行ったとこたえたら、さきちゃんは「げっ」と言ってのけぞった。パンチしてきた男の子の名前はのり君といい、小さなころからのり君を熱愛していたことも教えてあげた。現在サッカー少年に片思い中らしいさきちゃんは、恋する相手に殴られる気分とはどんなものかを知りたがった。

あみ子という人間にとても興味を引かれる導入です。物語は回想へと入っていきます。

小学生だったころ、母は自宅で書道教室を開いていた。(中略)楽しいことならほかにもあった。書道教室ののぞき見もそのひとつだ。赤いじゅうたんが敷きつめられたその部屋のことを、あみ子は「赤い部屋」と呼んでいて、赤い部屋に立ち入ることは母から固く禁じられていた。そのため、ばれないように襖の陰からのぞくことしかできなかったのだが、これが楽しかった。

男の子は筆を置いた。そして机の上の半紙を手に取って、自分の顔の高さまで上げて見せた。そこには『こめ』と書いてあった。白い紙に礼儀正しくおさまった、あみ子の字とは比べものにならないくらいのきれいな書体だった。すると男の子は筆に墨汁をしみこませすぎたのか、『こ』の下の棒の終わりから、ゆっくりとしずくが垂れ始めた。まるでにっこり笑った口の端から垂れる黒いよだれのようだった。見とれているうちに手の中のとうもろこしがみるみる熱を帯びてきた。伸びた爪が粒に食いこみ、皮を破った。甘い汁が滲み出て、汗と混ざってべたべたになった。力のこもる手指とは裏原に、ぼんやりした頭の中は目の前の男の子ひとりで満ちていた。

字のきれいな男の子、のり君に恋をした瞬間のシーンです。とうもろこしを通した感情表現が見事です。

そこへ突然名前が呼ばれた。
「あみ子じゃ」
 生徒全員、一斉に顔を上げた。
「あみ子が見とるよ。先生」
「先生。後ろ、後ろ」ひとりの男の子が元気いっぱい立ち上がった。腕をまっすぐに伸ばして筆の先をあみ子に向けた。母の黒い頭がくるっと回転したと思ったら、次の瞬間、細くとがった二つの目がこちらを見て、とまった。
 ゆっくりと近づいてくる母のあごの下のほくろを見上げながら、あみ子は堂々と訴えた。「入っとらんもんね。見とっただけじゃもん」
 後ろ手に襖を閉めながら、母は息を大きく吐いて娘に言った。「あっちで宿題してなさい」
「エーッ」
「エーじゃありません。行きなさい」
「あみ子も習字する」
「いけません」
「する」
「宿題終わってない子はお習字してはいけません」
「じゃあ見とく」
「いけません。ちゃんと宿題して毎日学校にも行ってお友達とも仲良くして先生の言うことをしっかり聞いてお行儀よくできるならいいですよ。できますか? 授業中に歌をうたったり机にらくがきしたりしませんか? ボクシングもはだしのゲンもインド人ももうしないって約束できますか? できるんですか? できますか?」

あみ子は、誤解を怖れずに言えば、自閉症スペクトラムをもっているといえます。「授業中に歌をうたう」というのはADHDのようですし、これ以降にもあみ子が起こしていく事件は人の感情を理解できないアスペルガー症候群のようです。しかし、今村さんは発達障害をテーマにしているわけではなく、あくまで「あみ子」という一人の人間を描きます。あみ子の視点を通して見えてくる世界に読者は共感します。

あみ子は父からおもちゃのトランシーバーをプレゼントしてもらった。夢中で観ていたアニメの主人公たちの必須アイテムで、二台セットになっている。欲しい欲しいと以前からねだっていた。
「これで赤ちゃんとスパイごっこができる」と言って、跳びはねてバンザイした。
 赤ちゃんというのは、今度生まれてくる予定の、あみ子の弟か妹のことだ。

流れゆく時間とともに、家族は変わってゆきます。変わらないのはあみ子だけかもしれない。

「おーとーせよ。こちらあみ子、こちらあみ子。おーとーせよ」ザーザーと雑音がするだけで、やはり兄の声は聞こえない。「もしもーし。もしもーし。おーい」

あみ子の呼びかけに、何を答えるべきなのか……。

今村さんの読みやすい語り口ながら、とても強い文学作品です。
気になった方はぜひ手にとってみてください。

●書籍紹介
こちらあみ子 (ちくま文庫)

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