前回の記事では、物語を「商品」としてみるときにはあれこれと評価がつくが、精神性の結晶「作品」として敬意を払うときには価値に差はないということを考えました。
その上で「文学とは何か?」を考えていきます。
ある人が物語をつくり、別の誰かが感じる。
そこには「作品」を通した、作者と読者のコミュニケーションがあります。
作者は書きさえすれば「作品」を創っているように錯覚しがちですが、文章は読まれたときに初めて「作品」となります。
たとえば、ある陶芸家が茶碗をつくるとします。作者は、焼き上がった時点で完成したと思うかもしれません。
しかし、その茶碗を誰一人使わないとすれば、それは茶碗ではなく土の塊でしかありません。
また、その器を手にいれた人々が、花瓶として使っていたら、その陶芸家がつくっているものは、茶碗ではなく花瓶です。
作者が「すばらしい文学作品」を書くわけでも「心躍るエンタメ作品」を書くわけでもありません。読者がどう感じるかが関わるのです。
けれど、同時に読者にどう受け入れられるかだけが、すべてではありません。
売れている物語は「商品」としての価値が高いかもしれませんが、物語の価値とは別です。
「商品」とは生産者の顔がみえないビニール詰めの野菜のようなもので、「作品」から作者が切り離された物語です。
コンクールのような公正な審査をする場では、作者と切り離して、客観的に「作品」を審査する必要はありますが、それでも作品には作者の声が宿っているので、完全に切り離すことはできません。
その声を拾い上げることは審査員の役目でしょう。コンクールに素晴らしい作品が送られていても、審査員が理解できていなかったら落としてしまいます。
作者と読者はあくまで共同作業なのです。両者が「作品」を通してコミュニケートすることによって、物語としての価値が生まれるのです。
一人の人間が生きている間に「作品」をつくり、別の誰かがその「作品」に共感する。
心や思想の送受信が、地球上のあらゆるところで、何千年も前から、時代や地域を超えて、つづいてきました。
そういった集合的コミュニケーション全体が「文学」と呼べるのではないでしょうか?
なぜ「文学」がつづいてきたのか?
それは、人はなぜ生きているのか?という問いかけと同じです。
人間は自分の意思で決断してから、生まれてきたわけではありません。
この世界に産み落とされて、思考や意識をもったときには、すでに生きています。
そして、いつ、何が起こるかもわからず、明日とつぜん死ぬかもしれない、そんな不安を払拭することができないまま、生きていかなくてはなりません。
「信じれば救われる」という宗教にすがるのも、「金を稼げば幸せになれる」という資本主義に妄信するのも、不安だからです。
そこには、不安から逃れる物語があります。
けれど、この世界は、個人など一瞬にして呑み込んでしまう残酷さをもっています(事故や災害など枚挙に暇がありません)。
いったん、不条理に呑み込まれると、もう、宗教や主義のような平時の物語では逃げ切れなくなります。
不条理と闘うには、非常時の物語が必要なのです。
それが文学の役割であり、不条理こそが闘うべき相手でもあります。
作者が書き、読者が読む。
その全人類的な共同作業をくりかえし、我々は、おおよそ勝ち目のない不条理な世界と闘っているのです。
「どっちが面白い」「売れている」「受賞した」といった、個々の「作品」の表面的な勝ち負けや差異を比べるだけでなく、もっと大きな視野で、書いたり、読まれたりしてもいいのではないでしょうか?
緋片イルカ 2020/06/29