【物語の価値とは?】(文学#28)

前回は、お店で言いがかり的なクレームをつける客から、しっかりと物語を読むということを考えました。

今回は、正当なクレームつまり、店側に問題がある場合について考えてみます(考え方の変化により、以前に書いた【文学的価値とは何か?】とは矛盾する部分もあると思います)。

物語には「商品」としての側面があります。

落丁や乱丁のように、本自体に問題がある場合は、出版社にクレームを言えば取り替えてもらえます。

店側(出版社)に問題がある、正当なクレームと言えるでしょう。明快です。

これが文章に関わってくると微妙になってきます。

文章校正が雑なために、誤字脱字が多い本というのはどうでしょうか?

一冊のなかに何文字までは許されるでしょうか?

一カ所や二カ所であれば、気にしないとか気づかない人もいるでしょうが、一冊で10個も、20個もミスがあるようでは、しっかりしてくれというかんじがしてきます。出版社が文句を言われても仕方のない側面があります。

地名や人名が間違っているといった情報的なミスは、ミスとして明確です。とくに情報を伝えるべき文章(たとえば辞書とか学参とか)での誤植は致命的です。

しかし、物語の文章表現となると、どこまでがミスとは一概に言えません。

頭の硬い国語の先生のような人であれば「日本語としておかしい」とか「文法としておかしい」と怒る人がいるかもしれませんが、あくまで小説です。

以前にもざっくり読書の記事でご紹介しましたが、高橋源一郎さんの本を引用してみます。

「正しい小説」なんてものがあるでしょうか。そんなものはありません。おもしろい小説やつまらない小説、難しい小説や考えさせられる小説はあっても「正しい小説」なんてものはないのです。その小説に必要だとするなら、わざわざ、「へんてこな」文章や「文法的に間違った」文章だって、ぼくたちは書こうとするのです。(『答えより問いを探して 17歳の特別教室』

まったく、おっしゃる通りだと思います。

さらに、こんなことも書かれています。

 もう亡くなってしまった小説家で、小島信夫さんという方がいました。小島さんは、亡くなるかなり前から、軽度の認知症に、というか、その程度はわからないのですが、とにかく認知症になっても、小説を書きつづけていたのです。すごいですよね。そんなこと、小説家にしかできません(笑)。小島さんが、「群像」という文芸雑誌に書いた小説が載っていて、実は、小島さんの担当編集者は、ぼくも担当していたので、とりわけ注目して読んでいたのです。とにかく、読んで驚きました。誤字脱字があるのは、いいとして……よくないけど(笑)……明らかに、事実に間違いがあるのです。たとえば、夏目漱石の小説『舞姫』とか、石川啄木が書いた小説『坊っちゃん』というような、そんな間違いでした。
 不思議なのは、雑誌に文章を載せる場合に、「校閲」という係の人がいて、誤字や文法・事実の間違いを厳密にチェックしてくれるはずです。「校閲」が絶対見逃さないような明らかな間違いがそのまま載っている、どういうことだろう。ぼくがそう訊ねると、担当の編集者は、ぼくにこういったんです。「小島さんが直さなくていい、っていったんですよ。でも、間違いは間違いじゃないですか、って訊ねると、小島さんは『いいんです、そのとき、わたしがそう思ったんだから』って」(同書)

こういう小島信夫さんの小説にクレームをつけるなんて、正しいとは言えないのではないでしょうか?

同じようなことは「ストーリー」に対しても言えます。

たとえば、小説の帯に「今世紀、最高のミステリー!」とか「読まないと後悔する!」なんて煽り文句が書かれていて、期待して読んでみたとします。

期待以上の内容と感じれば、満足感は高いでしょうが、それほどでもないと感じたら、期待値とのズレに不満が残ります。

この感じ方は、普段、ミステリー小説をどれだけ読んでいるかによっても変わるでしょう。

初めて小説を読むような人には驚きの連続でも、過去の名作をたくさん知っている人からしたら、どこかの焼き回しに感じることもあるでしょう。

Amazonのような商品レビューには、個人の感覚で、それぞれの感想が書かれています。

評論家と呼ばれる人たちは独自の視点を認められている人達で、それぞれの視点で意見を述べますが、その視点に賛同できるかどうかも様々です。

作品の価値を決めるのは、レビューの平均点でしょうか? 幅広い見識をもつ批評家の意見でしょうか?

食べ物と比べてみます。

「おいしい」「まずい」や「すき」「きらい」は体感的です。

レビューで点数が低くても、どこかの料理専門家が「安っぽい味だ」と評しても、自分が「おいしくて好き」なら買って食べるのではないでしょうか?

まあ、味覚にも気分が影響するので、身近な人の好悪で、好みが変わったりはしますが、見ず知らずの人のレビューなどはほとんど影響しないでしょう。

その点、物語は、思考や論理が影響するので、他人の意見に影響されやすい側面があります。

難解な文章を、有名な作家が書いたと思えばありがたがって、知らない素人が書いたと思えばイミフメイと切り捨てる人は多いでしょう。

だけど、前回の記事に書いたように、作品に敬意を払って、歩み寄って読み込んでいけば「作品」の向こうにいるのは、作者という一人の人間に過ぎません。

偉い大学教授だろうが、文才のないホームレスだろうが「誰かが何かを伝えようとして書いた」という点では同じではないでしょうか?

読みやすさ、伝わりやすさといった、文章技術の点では差があっても、その精神性に差があるとは言えないのではないでしょうか?

精神性に差があると感じるとしたら、それは、おいしいと感じるか、まずいと感じるか、あるミステリーを面白いと感じるかどうかといった、個人的な差異でしかないのです。

物語を「商品」としてではなく、一人の人間の精神の結晶、すなわち「作品」として敬意を払うことには、文学の本質があるように感じます。

そのことについては次回、書きます。

緋片イルカ 2020/06/29
2020/07/01一部推敲

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