【文学的価値とは何か?】(文学#20)

『競争の戦略』によれば、競争には「5つの力」が影響しているという。
「同業者」
「売り手」
「買い手」
「新規参入者」
「代替品」
の5つである。これに「文学」を当てはめて考えてみる。

「同業者」:これは当然、ライバルの作家ということになる。文芸誌にはページ数があるので、そこに作品をのせるにはイスとりゲームのように、他の作家を押しのけなくてはならない。しかし、作家には定年退職がないので、ネームバリューのあるベテラン作家が何年も居座り続けたりもする。その席を狙っているのは同年代だけでなく若手の作家もいる。年々、新人賞の受賞者があらわれて、数限りある席を狙っている。文芸誌だけでなく書き下ろしもあるし、それ以外の媒体も増えてはきている。イス自体が増えてはきているが、席の奪い合いであることは変わりがない。

「新規参入者」:文学は売れるものではないが名誉がある。それを狙って他業種から参入してくる人がいる。ロックミュージシャン、お笑い芸人、学者などなど。軽薄な文章で、文学の敷居をさげて売れる効果をもたらすこともあれば、小難しいまま評価されて敷居を上げてしまうこともある。本職から転向して文学を担う者として書きつづけていく者もいれば(そうなれば同業者となっていく)、肩書だけもらって消えていく者もいるが、この手の参入者が文学の評価に影響することは確かである。

「代替品」:文学を小説ととらえればエンターテインメントの小説群はすべて競争相手となる。堅苦しい文学よりも、ドラマチックでスリリングなエンタメ小説の方が面白いと言われてしまう。また小説ではなく物語というくくりでいえば、漫画や映画といったものも競争相手となる。場合によってはゲームやyoutube動画といったものも含まれるだろう。紙とペンだけで書けるというコストパーフォーマンスは小説の強みであったが、スマホカメラや編集ソフトの発達により、映像物語に対して金銭的な優位性はもはや持ち得ない。これらに抵抗しうる文学的価値を提示できなければ、同業者や新規参入者以前に、業種として負けてしまう。

「買い手」:読者である。小説のハードカバーの単行本が約2000円として、同じような金額で映画が一本見れる。映画は2時間もあれば始まりから終わりまで物語を楽しめるが、本を一冊読むのに何時間かかるだろう? 細かい文字を追って頭で想像力を使う労力と、役者が演じて音楽やCGまで使ってくれた映像を見るのとでは段違いである。そこには本質的な違いがある。「最近の子どもは本を読まないから想像力が育たない」なんて声がどこかから聞こえてきそうである。これは筋トレなんかに似ている気がする。時間と労力をかけて、本を読めばたしかに想像力は育つだろう。脳トレのようなものである。それが必要だと思っていても、より早く、楽に物語の世界に入れる映像表現があるのなら、そちらを選んでしまうのは仕方のないことである。じっくりと時間をかけて楽しみたい人には小説が向いている。コストパフォーマンスもよい。しかし情報がスピーディー化する現代では、一冊の本に時間をかけることは趣味に近くなってしまう。昔ながらの「文学好き」だけが買ってくれる衰退業種になっている。

「売り手」:主に出版社、編集者の仕事である。作家の書いた「文学」をどこで、どのように売るか? 話題作りをするために「新規参入者」に書かせたり、有名な賞をとらせたり、あの手この手で「文学」を売ろうとする。ただし、売り手が、その「文学」の本質を理解しているのかどうか。それは営業マンがじぶんの会社の商品をどれだけ理解しているかに似ている。売ろう売ろうと、文学をエンタメのような売り方をすれば、一時は売れても、読んだ人(買い手)に、文学ばなれを生むだけである。

『競争の戦略』では、他社に勝つための戦略を3つあげている。これも文学にあてはめてみる。

「コストリーダーシップ戦略」:一言でいえば薄利多売。物語という業種でこれを実践しているのは漫画雑誌である。小説よりも手間のかかる漫画を、たった200~300円で毎週提供している漫画雑誌に、小説が勝てるはずがない。この戦略は「文学」がとれるものではない。

のこり2つは「差別化戦略」と「集中戦略」である。

「差別化戦略」こそが文学的価値である。エンターテインメントではない価値を、作家はもちろん売り手である編集者、出版社がきちんと提示することによって、ただのドキドキ、ワクワクして楽しませてもらうエンターテインメントとは違った価値(文学はときには読者を不快にさせてよい)を商品とすることである。はじめから売る対象を限定していくのは「集中戦略」である。これは上記の文学的価値のわかる人にだけ売ればいい。その分、定価を上げてもいい。たとえば1冊6000円したらどうだろうか? 売る数は1/3でいい。そんな小説を誰が買うのか? 買いたい人が買うのである。

1冊で人生観を変えてしまうような物語であったら6000円など安い。どこかの胡散臭いセミナーの金額と比べてもいい。

あるいは旅行と比べてどうだろう? 空想の中とはいえ、誰も見たこともない世界にたった6000円でいけるとしたら?

駅やコンビニで衝動買いするには高い本かもしれないが、学生でも出せない金額じゃない。
本屋で店員さんがていねいにカバーをかけてくれた本を受けとる。表紙をめくって1ページ目を読み始める瞬間をわくわくしながら、バッグの重たい本の存在を感じながら家に帰る。
そんな体験を付加価値として、物語を提示することだってできるかもしれない。

ノーベル文学賞の候補になるような世界的文学は、これに近い存在といえる。

翻訳・出版の手間から6000円近い小説はざらにあるし、文庫にならないどころか、買っておかなければ増刷されないので絶版になってしまう(それでいて、世界文学は、地球規模で何千万部と売り上げているベストセラーでもあるのだ)。

どこかの国の作家が命をかけて書いたような物語(内戦のあるような国の作家は文字通り命がけで文学を書いていたりする)が、日本ではたった6000円で読めるのである。

この物語に興味を持つか持たないかは、その商品が欲しいか欲しくないかである。
衣食住の品と違って、物語がなくても人間は死にはしない。友達や会社の同僚の噂話やグチを話していたってかまわない。

けれど、人間はそういうつまらない日常に飽きたとき、あるいは苦しい日常から脱けだしたいとき、何かを希求するように求める物語がある。

それに答えるのが、文学的価値なのである。

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