物語と作家(文学#49)

人間は誰しも、人生という「自分が主人公の物語」を生きているといえます。

そのことは前の記事「読書会」でもとりあげました。

個人の人生という物語を「ちいさな物語」とするなら「おおきな物語」は歴史といえそうです。

また、その中間には会社や所属する団体といった「中間的な物語」も存在します。

それらの物語は価値観にも直結します。

大中小の物語について考え、作家としての向き合い方を考えてみます。

大中小の物語とは

まずは「ちいさな物語」から考えてみます。

ある大人の男性の価値観を考えてみます。

「贅沢はしなくてもいいけど、衣食住に困らない程度で、家族と平穏に暮らしたい」としてみます。(ちなみに物語論でいえばwantです)

共感しやすいかと思います。どこにでもいそうです。

どこにでも、というのは、国や時代に限らずという意味です。

日本だけでなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、どこの国でも、こういった価値観を持っている人は多いでしょう。

また、歴史を見ても同じです。

生活に苦しい農民だったり、戦時中でも、一般の多くの人が考えることは、同じでしょう。

生存欲求に基づく、シンプルな願望は、動物的であり、誰にもで共感しやすい価値観でしょう。

話を戻します。その男性の設定を考えます。

「妻と子どもがいて、ローンだが持ち家がある。楽ではないが仕事もある」としてみます。

彼はまずまず「幸せな物語」を生きているといえそうです。

人並みに嫌なこともあるが、それなりに、なんとかやっている。

家族が健康で、子ども達が元気に成長していってくれたらいい。そして、きっと、そうなるだろうとも考えていることでしょう。

これが「ちいさな物語」です。

ここに「中間的な物語」を登場させてみます。

たとえば会社です。

会社の方針を誰が決めるかは、さておき、資本主義社会では、企業は「業績を上げて成長する」という価値観で動いています(この資本主義という物語自体が、どうやらハッピーエンドにならないらしいというのが現代ですが)。

「廃業寸前のある企業が数億の負債を完済して上場した」なんて、プロジェクト成功ストーリーがあります。

こういったものは企業にとっての「物語」といえます。

「ちいさな物語」では家族の幸せを願い、「中間的な物語」では日本経済の成長を願う。そんな時代も一時的にはありましたが、現代はちがいます。

経営が悪いから、「今月からノルマを増やして、こなせない人間は残業してでも達成しろ」と、先の男性が言われたとします。

ここで「ちいさな物語」とより大きな「中間的な物語」がぶつかります。

彼はどうするでしょうか?(物語論でいえば葛藤というやつです)。

「ちいさな物語」=個人の生き方を重視して、そんな会社を辞めてしまう人もいるでしょう。

あるいは「中間的な物語」=会社の方針に従って、残業して、疲労して、だんだんと家族との関係がギクシャクしてしまうかもしれません。

ひとりの人間は、二つの物語を同時には生きられません。

物語の主人公と同じで、生きている我々も、どちらか決断をしなくてはいけません(物語論でいえば決断を迫られるビートというのがあります)。

とはいえ、現実では、はっきりと決断したつもりなんてなくて、「拒まない」ということで、いつのまにか流されてしまっていることが、ほとんどでしょう。

「会社に言われたから」と従ってしまうのです。より大きな物語に、個人は呑まれやすいのです。

会社よりも「おおきな物語」は何でしょう?

政府でしょうか。一理あります。

いまは、新型コロナウィルスの影響で、想像しやすいですが、「緊急事態宣言」のように、政府や都道府県の決定があれば「会社」も従わざるをえません。

もちろん違反と言われようと経営を続ける企業もあることも、忘れてはいけませんが、いまは物語の大きさの説明なので割愛します。

国より「おおきな物語」はないでしょうか?

地球規模ではどうでしょう?

環境問題などは国という小さな枠でなく、地球という規模=ものすごいスピードで悪化しているという「おおきな物語」で考えなくてはいけないでしょう。

おおきな会議で決まった方針は、国にもちかえり、それは政府の方針となり、企業に影響し、やがて社員である個人へと影響していくでしょう。

「おおきな物語」は強い影響力をもっています。

しかし、個人からすると、大きすぎて、どこか遠いことのように感じられます。

アマゾンの熱帯雨林が減少していることより、自分の会社の経営、もっといえば、給料が上がるかどうかの方が、大事に感じられるでしょう。

「おおきな物語」を動かしている人は誰でしょう?

顔が見えません。ひとりではありません。

各国首脳のように、複数の人たちの決定です。それは人類の総意といえるかもしれません。

長いスパンで見ると、それは歴史と呼ばれるような物語になっていくのです。

「どの物語を生きるか?」という選択

お金儲けを最優先する企業は、環境問題を配慮しないかもしれません。

「中間的な物語」を優先している企業といえるでしょう。

あるいは「おおきな物語」を優先して、自らの人生をかけていく人もいます。「ちいさな物語」よりも「おおきな物語」を優先するため、個人としての幸せには恵まれないこともあって、革命的な転換をもたらした人には、よくあります。

「ちいさな物語」に恵まれないからこそ、「おおきな物語」によりかかっていくという人も中にはいます。

先に「贅沢はしなくてもいいけど、衣食住に困らない程度で、家族と平穏に暮らしたい」という価値観の男性を考えました。

彼を「家族も恋人もなく、非正規で保障もなく働き、来月の家賃が払えないかもしれない。貯金もない」という設定にしたら、どうでしょう?

本人は「不幸」だと感じるかもしれません。

もちろん、独り身や、非正規であること(設定)で不幸だと言っているのではありません。

願望と環境にズレがあることに、不幸を感じるのです。今の暮らしを「自由で気まま。性に合っている」と感じているなら不幸と感じないでしょう。

「不幸だ」という物語を生きているか、「幸せだ」という物語を生きているのかの違いです。

「今は不幸でも、いつか一発あてて、大金持ちになる。」という物語を生きているかもしれません(そのために、資格をとろうと勉強しているのか、宝くじを買いつづけるのか、うさんくさいセミナーに参加しているのかは、人それぞれでしょうが)。

現状に不満を抱えている人のなかには、変化を求めてより「おおきな物語」に、自分を重ねて正当化する人もいます(理由は省略しますが「中間的な物語」ではなく「おおきな物語」に重ねることが多い)。

地球よりも「おおきな物語」があります。

宇宙です。

われわれは、地球と、その周辺で考えるのがせいぜいです。宇宙物理学者でも「わからない」ことが、たくさんあります。

地球温暖化を気にしようとも、太陽に異変があれば、たちまち地球なんて消滅してしまいます。

もちろん、会社も個人も一瞬で消滅します。

ここまで、わかりやすさのため、個人→会社→国→地球→宇宙と、物理的な大きさにリンクをさせてきましたが、この「最大の物語」は個人レベルでは「死」に相当します。

世界が平和であろうが、自分が明日には死ぬとなれば、これより「最大の物語」はありません。

今日、会社に行こうが、家族とすごそうが、明日には終わるのです。

すべてが不条理に感じられるでしょう(そして、すべての人間が、いつか、そのことと向き合わなくてはいけない)。

安全な場所から「死」を眺めているうちは「いま」や「いのち」を大切にするといった生きがいにつなげたりして、目を背けていることもできますが、さし迫った「死」はブラックホールのように、すべてを呑み込みます。

「死」を前にしてパニックを起こす人もいます。個人にできることは「祈る」ことぐらいなのかもしれません。

どんな物語を描くのか?

どうやって生きるか=どの階層での物語を大切にして生きるかは、個人の生き方です。

作家は自分自身の生き方(物語)とは別に、作品という他人の人生を描きます。

きれいなだけで、リアリティのないハッピーエンドを描くこともできます。

それは、それで、ある種の人への癒やしとなり、必要不可欠なものです。僕は「消費される物語」と読んでいます。くだらないエンディングはよくありますが、作品の存在を見下すべきではありません。

多くの人は、なかなか決断できず、あるいは決断の必要に迫られていることに気づきもせず、迷いながら、目を背けたりして、生きています。

「消費される物語」を通して、現実逃避しながらも、自分の人生を考えているのです。食べ物を消化してエネルギーとするように。

僕が考える「文学」は「最大の物語」に抗う個人を描くことです。

物語論にからめて考えるときはコズモゴニックアークとも呼んでいます。

それぞれの作家に、それぞれ描きたい「物語」があります。

その「物語」は作家自身の願望の投影かもしれません。

あるいは、誰かに向けて、投げかけられたメッセージかもしれません。

どんなものであれ、生きている我々にとって「物語」が、とても大切なものであることは、まちがいありません。

作家は、そのことを真摯に考えるべきだと、僕は考えます。

緋片イルカ 2021/05/10
2021/05/11改稿

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