読み方への態度について(文学#76)

作者と読者は「作品」を通して対話します。

この距離感でもある、「作品」に対する読者の態度について考えます。

作品に対する態度

世の中には「創作しない読者」と「創作する読者」がいます(映画で考えるなら読者は観客と言い換えて下さい)。

創作しない読者は、読むのが専門で基本的には楽しむために読みます。

創作する読者は、楽しむためはもちろん、自らの学習のためにも読みます。

そのため批評家的になったり、反対に創作の苦労を知っているからこそ必要以上に寛容になったりします。

スポーツ選手や料理人で置き換えてみます。

ただスポーツ観戦が好きなファンと、自らも選手で分析的な目で他のチームの試合を見る人。

空腹を満たすために客として外食する人と、自ら飲食業に携わっていて外食する人。

自らもするかしないかで、見方が違うのは当然です。

スポーツ選手や料理人は、自らの商売道具を大事にします。

スパイクやボールを雑に扱う選手や、包丁やまな板を手入れしない料理人を想像してみてください。素人目にもプロフェッショナルには見えません。

パフォーマンスを高めるために、道具が重要なことがわかっているからです。

物語創作においての道具といえば、キーボードやパソコンデスクなどでしょうか。

長時間書けないとか、集中しづらいなら、パフォーマンスを高めるために買い替えるべきでしょうが、それほど難しい問題ではありません。

いい物語が浮かばないのを、モノのせいばかりにしていても先へ進めません(道具だけ揃えれば一流のスポーツ選手や料理人なれるわけじゃない)。

物語の本質はドラマなので、むしろ大切なのはコミュニケーション能力です。

プロフェッショナルの道具への態度は、物語作家にとっては人間への態度につながります。

友人との電話やSNSでのやりとり、仕事での上司や部下とのやりとり、街での他人への態度、こういうものに、作者の「作品」に対する態度が現れると思います。

とくに他人の「作品」を読むときの態度は重要なのです。

道具に対する態度を見ればスポーツや料理の腕が知れるように、その人の読み方を見れば創作のレベルも知れます。

言い換えるなら、読み方=他人の作品への態度を変えることで、創作のレベルが上がっていくともいえます。

お金を払う読者として

作家を仕事にしている人にとって「作品」は商品とも言えます。

客は金銭を払って「作品」を読ませてもらうのです。飲食店で食事をしたり、スポーツ観戦にお金を払うのと同じです。

お金を払った客は「作品」に対して、自由に感想を言う権利があります。

たとえ、内容をこきおろすような感想をSNSでアップしても、法律に抵触していない(脅迫とかプライバシー侵害とか)のであれば、表現の自由です。

反対に、映画館のマナーCMですが、違法アップロードと知っていてダウンロードすれば読者側も犯罪ですし、そんな客が「作品」について、どうこう言うなというところです。

これは、食べてもいない飲食店のレビューを書かれてもな~というかんじと一緒です(「食べる気もしない」とかいって文句を書いている人がいますよね)。

「創作する読者」が作品に対して「時間のムダ」「金額に見合っていない作品」などと言うとき、一人の客の感想として自由ですし、その感覚を持つことは大事です。

ただし、その感想はブーメランとなって、創作するときの自分へも向けるべきです。

自分に甘く、他人に厳しい人が、職場にいたらどうでしょう?

嫌われるかはともかく、その人の能力に疑問が持たれるでしょう。意見に客観性がないからです。

あるいは「創作する読者」が、つまらない作品に寛容になったらどうでしょう。いい客かもしれませんが作家としての学びにはならないでしょう。

創作的な目をもって読まなければ、ただの客です。

客としてレストランに通い続けても、シェフにはなれません。

ちなみに、文章を書ければ物語も書けると勘違いする人が多いのか、物語創作をするというハードルが低いのか、日本は作家志望者が多いようです。

プロの料理人や、プロスポーツ選手になるよりも、簡単だと思われているようにも思います。

たしかにデビューを目指すだけなら、ハードルは低いかもしれません。

飲食店だって、店を構えるだけなら数百万でも出来るでしょう。プロはその先、続けていかなくてはいけません。

近隣の住人に常連がいる地域の小料理屋だって、全国チェーン展開するファストフードだって、金額や味に見合った商品を提供しつづけることで維持・成長していくのです。

プロの作家としてやっていこうと思うなら、貪欲な態度で読んでいくべきでしょう。

たくさん読むという量の面でも、しっかり読み込むという質の面でも、学習になると思えば時間を使うべきです。

そのための出費も出し惜しみするべきではないでしょう。

プロの料理人を目指す人が、包丁は高いから適当でいいやというのではいけません。

学び始め、たとえば自分がプロを目指せるか迷いがあるようなうちは恐る恐るかもしれませんが、覚悟が決まってくれば自然と出費が惜しくなくなるものです。

古本で高額だとしても、この本から学べると思うものがあるなら、買って読むべきです。

こういった「読み方への態度」が、創作のレベルに繋がっていくでしょう。

最初は適当な包丁を使っていても、自分のレベルが上がっていくと「良い包丁でないと、良い料理は作れない」という段階が来るのではないでしょうか。

「作品」と出費に対する態度を考えましたが、これは、各人の収入に寄ってしまう部分でもあります。

余裕があって惜しみなく出費はできるけれど、買うだけ買って読まないということもあるかもしれません。

余裕はないけど、一冊の本を何度も読み込んでレベルを上げていく人だっているでしょう。

単純に、金額の問題ではなく、あくまで「向上心」や「貪欲さ」の話です。

では、金銭のかからない作品への態度ではどうでしょう?

お金を払わない読者として

たとえば、無料で読める記事や作品が、ネット上には溢れています。

創作している友人から読んでくれと言われたりすることも、読ませてくれと言われることもあるでしょう。

こういったときの読み方に、物語創作という仕事への「誠実さ」が出るように思います。

まずは「読んでくれと頼まれた場合」を考えてみます。

料理でいえば「作りすぎてしまったので食べてくれ」と言われるようなものです。

日本人であれば、多くの人は料理を捨てるのはもったいないという意識があるでしょう。

ですが、物語は腐りませんし、動植物の命を頂いている訳でもありません。原材料は作者の「時間と労力」に過ぎません。

誰でも知っていますが読むという行為には「時間」がかかります。

「読んでくれと頼むこと」は作者の自分勝手な都合だということは気づくべきです。

頼まれた側=読者には、断る権利があります、断り切れずに受けとったところで、読んだり感想を返す義務はありません。

感想をくれないと怒るような作者は、驕りに過ぎないのです。

もちろん、個別のやりとりはあるでしょう。

「すぐ読んで、絶対に感想送るね!」と言っていたのに、数ヵ月も無視するような思わせぶりな態度だったりしたら「くれるって言ったじゃん」とひっかかるところはあります。

それでも作者側は「相手の時間を使うものを押しつけている」という意識はもってしかるべきでしょう。

現代において「時間」は価値です。

さまざまなメディアが広告費にお金をかけてまで注目を集めて、人々の時間を奪い合うなか「読んでくれない」と文句を言うのは「お金をくれない」と言うのに等しいものです。

プロで出版されている作品で「商品」です。「商品」でないなら読んでくれないと嘆いていいるよりも、作品の質を高めるよう自省するべきでしょう。

これが読んでくれと頼まれたのではなく「読ませてくださいと頼まれた」となると、話はまるで違ってきます。

無料で公開している「作品」であれば、作者は「断りもなく読んでいい」と言っているものです。

そういうものに、攻撃的な感想を書くのはどうかと思いますが、公開する側もコメント欄を閉じたり非公開にしたりすればいいだけです。

公開というのはそういうことなので、仕方ありません。SNSによっては、公開したい人にだけ公開するという手段もあるはずです。

「あなたの作品を読ませてくださいと頼まれた」とき、見せる見せないを選ぶ権利は、もちろん作者にあります。相手をみて自由に決めればいいことです。

「感想をくれるなら」とか金銭の要求といった条件をつけた上で読ませてもいいでしょう。

作者の「時間と労力」をかけて書いたものです。

「読ませてください」と言う側は、この「時間と労力」をどれだけ想像しているか?

そこに、読み方への態度が表れます。

安易に「読ませてくれ」と頼むことは、作者の「時間と労力」を尊重していない可能性があります。

「読んでやる」といった不遜な気持ちが込められてることもあるかもしれません。こんな相手には大切な「作品」は読ませない方がいいかもしれません。

頼んだからには、それなりの礼儀があってしかるべきでしょう。

料理を作ってもらったら、お礼と「ごちそうさま」は言うべきですし、味の感想ぐらいは添えるのが礼儀です。

そういうことをしない「創作する読者」は、作者の「時間と労力」が想像できていないのでしょうか?

ママが料理を作ってくれるのは当たり前と思っているお子ちゃまかもしれません。

あるいは、その「創作もする読者」自身が、自分の創作に「時間と労力」をかけていないのかもしれません。

無料のものへの「読み方の態度」を見れば、作者の物語に対する「誠実さ」のレベルがわかるというものです。

聴く耳をもった読者として

さいごに「作品」の内容への読み方について考えます。

ここで2人の料理評論家を考えてみます。

一人は「和食のような深みのある味こそが究極の美味である」と考える評論家で、チェーン店のような濃い味は品がないと評します。

もう一人は良いところを見つける態度で「チェーン店にはチェーン店の良さがある」といった態度の評論家です。

どちらが、優れているでしょう?

愚問でした。

どちらが優れてるなど言えません。

あなたが「和食の料理人」を目指しているなら、一人目の評論家の意見が参考になるかもしれません。

あなたが「チェーン店による大規模経営」を目指しているなら二人目の意見が参考になるかもしれません。

けれど、行き詰まった「和食の料理人」がチェーン店の経営からヒントを得ることもあるかもしれません。

伸び悩んでいるチェーン店が本格的な味を導入して、価格帯を上げることに成功するかもしれません。

誰の意見が、どこで役に立つかなどわからないということです。

どんな意見でも聴いておいて損はないということです。

つまらない作品にも、つまらない原因を見つけられれば学習になります。

鋭いことを言う人の意見が、いつも正しいとは限りません。

「創作しない読者」の率直な意見が、本質的であることなどよくあります。

物語の本質はドラマ、大切なのはコミュニケーション能力です。

読むときには、相手=作者の気持ちをしっかり受けとるような態度、相手の話をしっかり聴くような態度が大切です。

自分の好みと合わないからといって否定しているだけでは、気づけないことがたくさんあります。

ジャンルや目指す方向性に合わせて(和食のように)、集中的に読むことで専門性があがります。

いろんな作品を幅広く読むことで、普遍性が見えてきます。

どちらも大切です。

いろんなものを読むことと、いろんな人の話を聴くということは、何ら変わらないと思います。

しっかり読むことと、しっかり聴くこととは、何ら変わらないと思います。

読み方=他人の作品への態度を変えることで、創作のレベルが上がるというのが、今回のテーマでした。

さらに言うなら、身近なコミュニケーションを改善することが、創作のレベル向上の近道になるのかもしれません。

緋片イルカ 2023.3.9

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