作家のプライド(文学#57)

仕事でもスポーツでも、どんなものごとにおいても「プライド」は良い側面と、悪い側面があると思います。

スポーツは、わかりやすいです。

プライドの高い人は、勝つことに拘り、自分より強い相手に勝つため、練習や努力をします(井の中の蛙は問題外として)。

これは「自分がチャンピオンでなければならない」というようなプライドなのだと思います。

プライドが低いアスリートは、負けた要因に、己の弱さ以外の「運」や「相性」といった言い訳に近い考え方を持ち込んでしまうのではないでしょうか。

現実問題として、そういう要因はあるでしょう。分析としては考慮に値しますが、プライドは負けを許すか許さないかの「感情」です。

「負けは負け。どんな理由があっても負けは許されない」というのがトップアスリートの自負ではないかと思います。

スポーツのように勝敗がはっきりとつくものでは、勝つことへのプライドは、そのまま勝利への努力へつながります。

しかし、小説を含め、芸術のようなジャンルでは勝敗は曖昧です。

「売上げ」や「人気」、「受賞」のような基準はありますが、あくまで他人からの評価に過ぎません。

売れていたり、レビュー数が多くても、くだらないものもあります。受賞作品もしかり。そんなことは誰しもが感じることでしょう。

「作品への拘り」が独自の分野を開拓する魅力になることもあれば、成長を阻害する「へんなプライド」になることもある。

創作を指導するスクールのような場所では、講師の意見に対して、生徒側で様々な意見が飛び交っているのもよく見うけられます。

あくまで、僕の考えですが、作家にとってのプライドの持ち方、すなわち「何に拘るべきか」を考えてみたいと思います。

自分のために書く

「誰に読まれたいのか?」

これは、自分のプライドを考える上で大切な基準です。

もっと安直にいえば「趣味でいい」か「プロになりたい」かといったところでしょうか。

「趣味」で良いのであれば、他人の意見など気にする必要はありません。

子どものお絵かきを思い出してみましょう。

自由に、楽しいから描くだけ。

宿題とか、他人の良い評価を受けるために描くのではありません。じぶんの楽しみのために描くのです。それこそ、正しい趣味です。

小説でいえば、誰にも読ませずに、机の奥やパソコンのフォルダの奥にしまっておくだけで満足ができるなら、それでいいのです。

趣味ならば「自分が楽しいかどうか」に拘るべきでしょう。別に上手くなどならなくてもいいでしょう。

世の中には、頼んでもいないのにアドバイスをしてくるありがた迷惑な人がいますが、楽しくないと思う意見なら無視して、自分が楽しいと思うことだけに従えばいいのです。

「描きたいものを描くべき」とか、「心の奥底から湧き上がってくるものを形にするんだ」なんて芸術論もあります。

ある種の天才的アーティストであれば、他人の目など気にせず(というか、性格に難があり、他人の目を気に出来ないという場合も多い気がしますが)、

感情の赴くままに表現したものが、他人から評価されることもあるでしょう。

この境地に到るのは、凡人には難しいかもしれませんが、頭ばかり働いて楽しく書けていないときは、子どもの気持ちを思い出すように取り組んでみるのも良いのかもしれません。

身近な人に向けて書く

楽しいから書くのであれば、読者なんか気にする必要はありません。

しかし「誰かに楽しんでもらいたい」などと思ったとき、少し様子が変わってきます。

物語は「語り」というぐらいですから、誰かに「聴かせること」で成立するとも言えます。

一人語りは「詩」や「歌」にはなるかもしれませんが「物語」にはならないかもしれません(こんなのは言葉の定義次第ですが)。

誰かに読んでもらいたい。では、誰に見せるか?

子どもであれば「ママ、絵描いたの、見て!」の状態でしょうか。

ステレオタイプな母親であれば「上手ね、よく描けてるわね」と褒めるでしょう。

このとき、子どもに褒められたいという欲求があるかは微妙です。

ただ単に「見せたい」とか、場合によっては「母親を喜ばせたくて、母親な好きな母を描いた」といった動機かもしれません。

褒められる成功体験を得れば、次からは褒められたくて描くようにもなるかもしれませんが、初期の衝動はもっと原始的な「共有したい」という気持ちではないでしょうか。

身近な人に向けて書くときは「共感してもらえるかどうか」に拘るとよいでしょう。

不思議な国のアリスやピーターラビットは、初めは、身内に向けて描かれた物語でした。

誰かを喜ばせたい、笑わせたいといったポジティブな感情から書かれることもあれば、自分の苦しみを分かって欲しいがために書かれるような物語もあるでしょう。

厳格な父や、束縛的な母親への抵抗として、書かれた切実な文学作品も多々あります。

いずれにせよ、身近な人に向けて書かれた物語と言えるでしょう。

99人がつまらないと言っても、自分が伝えたいと思っている相手に届くなら、99人の意見など無視して良いのです。

一方で、99人が満足していても、伝えたい相手に届かないなら、失敗の可能性もあります。

ここには、テーマや売れるという問題と似た構造が潜んでいます。

己のテーマを貫いていれば、99人に伝わらなくてもいいでしょうし、99人に人気でも、自分が書きたいものからブレているなら、失敗作かもしれないのです。

社会に向けて書く

社会に向けて書くということは、プロになって本として出版するようなことです。

資本主義経済で、自分の物語が商品として流通するという考え方をしてしまうなら、料金に見合うクオリティが必要です。

クオリティ=エンタメ性という基準で考えられがちですが、文学的な作品を求めている人には文学的な深みが必要です。これはジャンルの違いです。

安くて売れるビニール傘であれば「安いこと」や「最低限1~2回の雨には耐えられること」が求められるでしょう(むかし、急な雨で100円ショップで買ったら、ものの数分で骨が折れた記憶があります笑)。

一方、丈夫で軽い傘を求めるような人には、金額が高くても、機能に見合ったものを求められます。

エンタメにはエンタメの、文学には文学の価値があるのです。これを「小説」という大きすぎるくくりで、ひっくるめて売上げをどうこう言うのは「世界で一番売れているビニール傘は、世界一いい傘だ」と言っているような乱暴な意見です。

社会に向けて書く場合、ある程度のターゲットが必要でしょう。

すべての人に受け入れられるものなどないのですから、身近な誰かに向けるように「こういう人に向けて書く」という狙いが必要です。

それが誰であるかは構いません。

身近な誰かに向けたものが、社会にも共感される場合も多々あります。これは文学の視点です。

あるいは多くの人を楽しませる目的で「最大多数の最大幸福」を目指す方向性もあるでしょう。これはエンタメの視点です(ただし多様性の現代では合わなくなってきていると思いますが)。

他人の意見と自分のプライド

「社会に向けて」という言葉を「第三者に向けて」と言い替えてみると、ネットで自分の作品を公表するような場合も含まれてくると思います。

非公開で載せていれば、それは「身近な人に向けて」いるだけになりますが、公開すれば、見ず知らずの人が読むことがあります。

コメントを残してくれる人もいます。

どんな作者も「面白かったです」「楽しかったです」と言われて嫌な気になる人はいないでしょう。

一方で、あれこれと意見する人も現れます。いわゆるアンチとか善意の押しつけをしてくるような人です。

有名になることを目指している人であれば「アンチが来るほど閲覧数が増えた」と喜べるかもしれませんが、ちょっとした趣味の延長で公開しているような人には嫌でしかないでしょう。

いい人も、悪い人もいる。これは世の中の道理です。公開する上は、ネガティブな意見だけを完全に遮断するのは、なかなか難しいでしょう。

大切なのは、他人の意見とどう向き合うかではないでしょうか。

これは作品を通した対話とも言えるでしょう。

耳を傾けることで、自分が成長できる可能性もあります。冒頭であげたアスリートでいうなら、勝つためには何でも利用すればいいのではないでしょうか。

従うべきか迷うような意見も多々あるでしょう。知らない人間の意見であれば無視するのも一つの手です。

街で「名乗らないけど、いいこと教えてあげるよ」なんて言われたら、怪しい宗教の勧誘か何かでしょう。

名前も名乗らないような人間の意見は聴くに値しないというのは、おおよそ正しいでしょう。

けれど、同時にいいと思ったなら素直に従うのもいいでしょう。知らない人の意見だからという理由で拒むのであれば、それは「へんなプライド」です。

一番大切なのは「いい作品にすること」。

そのためには自分の書きたいもの、読ませたい相手をしっかりと定めておくことだと思います。

芯がブレていると「あの人がこう言ったから」「この人がこう言ったから」とブレて、何を書きたいのか分からなくなってしまいます。

そんなときには、初心に返るように、プライドの置き所を考えてみるのがよいかもしれません。

作者の核(ライターズコア)をしっかり持てば、他人の意見を無視するか、使わせてもらうかに、迷うことは少なくなると思います。

緋片イルカ 2021/12/21
2021/12/23修正

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