文学を考える1【文学とエンタメの違い】

ある作家が「エンタメは読者を気分よくするもの、文学は読者の気分を悪くさせるもの」と言っていた。
エンタメは娯楽、文学の役割はそうではないのだという意味では言い得て妙だと思う。

別の作家は「エンタメはエピソードを追う、文学は人間の心を追う」と言っていた。
主人公のキャラクター性や、事件をテンポよく展開していくことで観客をハラハラドキドキさせるのは、まさにエンタメである。映画でジェットコースタームービーなんて言葉はそのものずばりである。一方、文学的と言われる物語には、人間の内面を追及しているものも多い。

また「文学とエンタメの境界は曖昧になっている」という言い方もされる。
とはいえエンタメ作品にも深いテーマがあるものもあるし、逆に文学という装いで無意味な戯れ言ばかり並べた私小説では誰も読まないだろう。文学にも最低限の「物語性」は必要になってくる。

「物語性」は構造に由来する。
それは「プロットを考えるシリーズ」でビートという構成要素から考えてきた。ビートは家の「柱」や「壁」や「屋根」のようなものである。家であるためにはそれらがないと機能しない。

構造を避けようとしてか(あるいは作者が構造を理解できていないためか)、物語として破綻している作品がある。
それは柱も屋根も取っ払って、家としては機能していないようなもの。青空の下で「地球こそが私の家である!」と叫んでいるようなもので、芸術論的な面白味はあっても住みたい(読みたい)とは思わない。
多くの人は、野宿よりも暖かくてプライバシーの守られた普通の家を好むだろう。
もの珍しさや一時のブームから、そういった脱構造化された作品が流行って面白がられることがあるかもしれない。しかし飽きられば廃れて、次の世代まで読み継がれるような作品にはならないだろう。

柱や屋根は、家であるために必須な要素であるが、快適に住むためには「トイレ」や「風呂」も欲しい。
そういった要素(必須ではないが基本的なビート)を備えていくと快適な物語、つまりエンタメ作品となっていく。至れりに尽くせりの家で、読者は思うままに、考えることなく、受け身で楽しめるのである。

それに対して文学作品には読みづらさがつきまとうことがある。
これは文学呼ばれるものに古典が多いせいもある。単純に言葉使いや表現が古くてわかりづらいのである。これは仕方がない。現代人が江戸時代の長屋に住むような不便さである。人によっては耐えられないだろう。しかし、当時の人の暮らしを想像できれば、その価値がみえてくる。文学を読むには「想像力」や「感受性」、ときには「基礎知識」といった読者側の姿勢も求められるのである。だからエンタメ作品を読むように、文学作品を読んで、面白い、つまらないといった基準で読むのは間違っている。スポーツに別のスポーツのルールを当てはめているようなものである。

また、現代作家では下手なだけの作家が文学と勘違いされる場合がある。
構成力や文章力が足りないがために、読者に不必要に「想像力」や「感受性」を強いる。故に、作者が描き切れていない部分を、読者の方で補填して文学が成り立ってしまっている。読書体験は作者と読者と作品の三者によってなりたつものなので、作者の実力や意図が伴わなくともある種の感動を生むことはあってよい。しかし、そういう作家は二作目、三作目と書くうちに評価が明確になっていく。読みづらいのであれば、読みづらさにまさる「価値」がなければならない。それこそが文学の根幹である。

緋片イルカ2019/04/13
2019/04/18改稿

文学を考える2「ビートの強弱」

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