文学を考える2【ビートの強弱】

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前回、家屋には柱や屋根が必要なように、文学であれエンタメであれ、物語にはビートが必要であるということを考えた。今回はビートの強弱と機能という観点からエンタメと文学の違いについて考えていく。

エンタメであれ文学であれ、物語が始まれば主人公が登場する。男か女か、年齢、どんな職業で、家族はいるか。どんな性格で、どんな考えで生きているか。そういったものが読者に伝えられるのが「主人公のセットアップ」である。あえて一部の情報を隠されたりすることはあれど、主人公についての最低限の情報が開示されないまま物語が進行すれば、読者はストレスを感じる。文学作品が読者に読む努力を強いるものであれど、未熟や不親切とは違う。意図的に隠すのと、伝わっていないのは違うのである。「主人公のセットアップ」はエンタメであれ文学であれ物語に必須のビートである。(ちなみに語り手と主人公はちがう。語り手が誰かわからないのは構わない)。

主人公が提示された後には最初の事件が起きる。これが「カタリスト」
これもエンタメだろうが文学だろうが、物語である以上、共通する構造である。事件が起きないまま、延々と主人公の日常を聞かされても(とくに私小説に多いが)、そんなものは物語とはいえない。日記である。
文学を目指す作家にはエンタメ性の否定こそが文学であると勘違いしている者もいるが、きちんとした文学作品にはきちんとしたビートがある。

しかし、エンタメと文学ではビートの強弱に違いがある。

エンタメ作品では「息子が誘拐される」というような大きな事件が起きて観客を引き込んでいく。ビートが強くてはっきりしている。
文学作品では「駅である女を見かけた」というような一見すると事件には見えない弱いビートで展開されていく。

「ビートが弱いこと」と「機能していない(=ビートがないに等しい)こと」は似ている。

物語に慣れていないと、弱いビートが確かにあるのに、ないように感じられる。小津安二郎の映画のように、きちんとビートはあるのに読み取れない観客には、何も起きていないように感じられて、眠くなったりつまらないと感じてしまう。

あるいはビートとしては機能していないのに、こけおどしの「ビートらしきもの」もある。
テレビドラマのCM前に、驚くような事件を予想させておいて、CMがあけると勘違いだったというような展開の仕方である。質の悪いエンタメ作品では、こういうったものが多い。
観客は「CMを我慢して、つづきを見れば楽しませてもらえる!」と創り手を信じて期待しているのに、そうでなかったときには裏切られたように感じてがっかりする。こういう「ビートらしきもの」=「機能していないビート」ばかりで展開する作者は信用も失う。調子の良いことばかり言う客引きのようである。

機能していないビートでも、飽きさせないための演出上のテクニックとしては、ないよりはあった方がマシともいえるが、どうせいれるなら、しっかり機能させたビートを入れた方がよいに決まっている。これは深みのあるエンタメと、薄っぺらいエンタメの差につながる。
一方、文学作品でストーリー自体が地味な話でも、弱くともビートを機能させれば、飽きさせずに展開していくことはできるのである。

次回は「ビートが機能すること」について考えていく。

緋片イルカ2019/04/13
2019/04/18改稿

文学を考える3「ビートが機能するということ」

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