【「個人」という最少マイノリティ】(文学#23)

もはや性的マイノリティ、セクシャルマイノリティという言葉は社会に定着している。セクマイなんて略語までできているのは認知されている証拠だ。

意識的であれ無意識的であれ、マジョリティから抑圧されていた人達が、生きやすい社会になっていくというのは、もちろんいいことだと思う。

でも、この多数と少数の力関係は、構造的に連鎖している。

知識が乏しいのでセクシャルマイノリティでの具体例は挙げられないが(誰かご教授ください)、セクシャルマイノリティにくくられる人の中での、さらにマイノリティの人達がいるだろう。そのマイノリティの中のマイノリティにもまた少数派がいて……それは仏教の輪廻のように続いて、さいごは一人の人間=「個人」に行きつく。

世の中に、自分と100%同じ考え方や感じ方をする人など存在しない。人間は家族でも双子でも一人一人は違う。そこには擦れ違う「孤独」があり、同時に他人を求める「欲求」がある。「個人」は最少マイノリティである。

100万人のうち99万9999人がイエスと言っていれば、それは正しいのだろうか?
たった1人の訴えることは間違いだろうか?

「戦争はいけない」とか「人を殺してはいけない」と言っていたとしても?

同調圧力に動かされる多数派には、思考することをやめて、倫理観が容易に崩れてしまう怖さがある。

一方で、1人の気狂いが、何も罪もない人達を無差別に殺したとして、その人を死刑にする権利はあるのだろうか?

僕は死刑に関して賛成派でも反対派でもありません。考えても考えてもどっちが正しいか本当にわからないのです。

そういう答えを出せない問題が、世の中には山ほどある。

歴史をみれば、侵略によって失われたマイノリティの例は枚挙に遑がない。
生き残った人がいれば、まだ幸いで語り継ぐことで残るが、もはや語り手もなく消えてしまった文化もあるだろう。

経済の一時的な発展とか、最大多数の最大幸福のためには、少数派が犠牲になってでも答えをださないといけない。それはそうかもしれない。

それでも安易に結論づけてはいけない問題がある。同調せずに勇気をもって「わからない」と言ったり、「本当にその発展は必要なのでしょうか?」と問い続けていくことは大切だと思う。

わからないからといって、無関心ではいたくない。
だから僕は物語を紡ぐ。

「ちょっと具体的に考えてみませんか……」
物語は一種の思考実験でもある。

物語の役割は、現実逃避やただの娯楽だけではない。
それを「文学」と呼んでも、呼ばなくてもいい。

マイノリティでいることは身の危険すら伴う。「みんなの輪を乱す人」を正義の名のもと、ぜったいに許さないという人々がいる。ソクラテスのように毒をあおることになるかもしれない。

けれども、毒を喰らわばの覚悟で書かれた物語が人の心を打たないはずがない。行ったこともないギリシアという国の、2000年以上も前の、一人の人間の言葉が今も残っているのだから。

緋片イルカ 2020/03/15

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