私は父の下着を畳み続ける母の横顔を見ながら、わけもなく、母が同い年のクラスメイトだったらきっといじめてるなと思った。(『授乳』村田沙耶香)
『授乳』は2003年に群像新人文学賞を受賞した村田沙耶香さんのデビュー作です。
デビュー作というのは、文章表現が散らばっていたり、テーマが掘り下げきれてなかったりといった荒削りなところが多い反面、受賞に値する「何か」が光るものがあるはずです。
村田さんは「視点」に特徴がある作家だと感じます。
母親に対して「きっといじめてるな」という感覚。
殺してやりたいとか、消えてほしいといった憎しみではなく、一歩退いた距離から、この人のこと、好きじゃないないなと眺めている感覚。
母親を、親と思わない表現にふしぎな違和感があります。
中学生の「私」は家庭教師の大学院生に、乳房を吸わせ、その姿を母親に見咎められる。
表面的な物語だけとれば、どこかの少女漫画かアダルト小説にでもありそうなシチュエーションですが、「私」の独特な視点と行動が個性的です。
「私」は母親の乳房を踏みつけるラストシーンも、その一つです。
「母性」に関するイメージアイテムを配置してテーマのようなものを匂わせますが、いったい何を伝えたいか、作者の声があまり聴こえず、戸惑います。
僕が聴きとれていないのでしょうか?
同書に収められた『コイビト』では物語構造がはっきりしていて、聴きとりやすく感じます。
ホシオと名付けたハムスターのぬいぐるみを恋人と思う「あたし」は、同じようにムータというオオカミのぬいぐるみを愛する少女、美佐子と出会います。
ぬいぐるみを移行対象として、現実からの逃げ道とすることはめずらしいことではありません(参考:『ウィニコットと移行対象の発達心理学』)
それがとてもグロテスクなことだということを、美佐子を見ていて初めて気づいたのだ。美佐子の中に映しだされているあたし自身に対して、あたしは吐きそうになったのかもしれなかった。(『コイビト』村田沙耶香)
美佐子はムータとの子どもが欲しいと願い、ラブホテルに入った末に、屋上から飛び下ります。
あたしはこの数日間、食べ続けたことで少し膨れた自分の腹部を見た。ホシオがいなくても、あたしは食べて、脂肪をたくわえて、生き延びることができるんだ。そう自分に言い聞かせる。あたしは窓を開けることにやっと成功した。夏の匂いを含んだ、蒸した空気が室内に流れ込んできた。あたしはポケットに手をつっこみ、ホシオをとりだした。汚物にさわるように中指と親指でホシオをつまみあげた。ホシオがこっちを見ている。あたしが舐め続けたプラスチックの目。やっぱりあたしを笑ってる。殺される前に殺してやるんだ。あたしはホシオを窓から放り投げた。(同)
キャラクターの変化からいえば(心理学的にも)、見事な成長です。
しかし、そんな「あたし」を美佐子が笑います。
「そんなことしても、ぜったいに、ソレがなくちゃお姉ちゃんは生きられないんだよ」
見ると美佐子は異様なほど生きる力に満ちたあの顔つきでこちらを見ていた。
「ソレは形を変えて、必ず、お姉ちゃんの中からもう一匹生まれてくるよ。何度捨てたって、必ず、きのこみたいににょきにょき、生えてくるんだよ。ソレがなくちゃお姉ちゃんはもう、生きていけないんだもん」(同)
現実社会と、空想や妄想といったフィクションの世界との葛藤が、村田さんのコア(参考:ラーターズコア)のひとつなのではないかと感じました。
『授乳』で描かれていた母親に対する違和感は、母親に向けたものではなくく、現実世界そのものへ向けたものだったのかもしれません。
同書に収められた三作目『御伽の部屋』はタイトルからして「おとぎ」です。
父はよくお風呂に防水の携帯型テレビを持ち込んで野球やニュースを見ていた。小さいが重みのあるそれは灰色のゴムで覆われ、その上に長く伸びる太いアンテナが取り付けられていた。あたしはそれを額の内側に思い浮かべた。それはあたしの頭蓋骨の内側に設置するのに丁度いい大きさだった。ゴム製の黒いボタンを思い浮かべながら自分の左手の親指の付け根を押すと、色鮮やかな画面がつき、その中になら、見たいものをとてもくっきりと映し出すことが出来るのだった。(『御伽の部屋』村田沙耶香)
あたまに空想のテレビを埋めこんだ佐々木ゆきと関口要二との理想的な「おとぎ」の世界が描かれます。
あたしは小さいころ見たホームドラマでアイドルの女の子が言っていた棒読みの台詞を、同じように棒読みで呟いた。「どうせあたしなんか、生きてたって仕方ないんだ。だれもあたしなんか必要としてくれてないんだ」鳥肌が立つような台詞ほど、舞台は盛り上がった。どうしようもなく陳腐な台詞ほど、実際に自分の舌を動かして声をだし、それを確実に受け止めてくれる生身の人間が目の前にいれば、それはとても真剣な遊びの始まりになる。(同)
あたしたちは今、多分、セックスをしているのだろう。体に何も挿入してなくても、これがあたしたちの作り出したセックスの形なのだろう。そう思った。(同)
その一方で、要二の友人、ケンとの肉体的セックスに及びます。
あたしはうろたえた。要二の藍色のドアを思い浮かべたいけれど、ケンに名を呼ばれるたびに脳が振動してうまく思い出せない。あの部屋で、関口要二に守られた、小さな佐々木ゆき、関口要二の佐々木ゆき、は、いったいどこへ行ってしまったのだろうかと、獣のようになってしまった自分のピンクの爪を傍観しながらそう考えていた(同)
ゆきは、ケンの腹を蹴り飛ばし、要二の部屋に戻ります。
しかし、現実社会に触れてしまった、彼女にはそこは、もう元の「おとぎ」の世界ではありませんでした。
ゆきは要二のシャツを着て、「ぼく」と呟きます。
僕、僕、僕だ、と僕の声は音量はどんどん増していった、僕は僕の音声にゆすぶられ、それでやっとわかった。要二は僕にただ、操られていただけの操り人形で、本物は僕自身の中にいたのだった。僕が探し続けていた理想の他者は、僕の中にいたのだった。(同)
物語は、サブストーリーとして挿話される女装する正男お兄ちゃんとの話と絡み合って、性的マイノリティへの自覚のような終わり方をしますが、『コイビト』の少女・美佐子が言っていた「形を変えて」生まれてきた「もう一匹」に過ぎないようにも見えます。
村田さんの文章は、語り手の感覚や感性は書き込まれている一方、設定やキャラクターにはリアリティがなくて、まさに人形や空想の世界が描かれているように思います。
「わたしの世界」を持っていることは作家として強い個性だと思います。
知人で、どの作品を読んだのかはわかりませんが、「きもちわるい」「この作者の本は二度と読まない」と言っていた方がいました。
たしかに、村田さんの文章はきらいなものに対する排他的な表現も目立ちます。
けれど、この作者と対話するには、彼女の部屋に入っていかなければいけません。小説として表現されている時点で、部屋の入口は開かれています。
その世界に共感できる人には、とても居心地のよい部屋ですが、そうでない人は悪趣味に感じるかもしれません。
『授乳』は2003年の作品です。つぎは『ギンイロノウタ』を読みます。
『ギンイロノウタ』は2008年の作品で5年も時間が空きます。
村田さんがその後、現実とフィクションにどう向き合っていくかを見ていきたいと思います。
緋片イルカ 2020/07/12
読書会報告#4『コンビニ人間』村田沙耶香 (三幕構成の音声解説)
読書会後に読んだ村田さんの作品について → 村田沙耶香作品まとめ