違和感を抱えて生きるすべての人へ。不器用な「私たち」の物語。
桜尾通り商店街の外れでパン屋を営む父と、娘の「私」。うまく立ち回ることがきず、商店街の人々からつまはじきにされていた二人だが、「私」がコッペパンをサンドイッチにして並べはじめたことで予想外の評判を呼んでしまい……。(「父と私の桜尾通り商店街」)
全国大会を目指すチアリーディングチームのなかで、誰よりも高く飛んだなるみ先輩。かつてのトップで、いまは見る影もないなるみ先輩にはある秘密があった。(「ひょうたんの精」)
平凡な日常は二転三転して驚きの結末へ。
『こちらあみ子』『あひる』『星の子』と、作品を発表するたびに読む者の心をざわめかせ続ける著者の、最新作品集!
今村夏子さんの『むらさきのスカートの女』を読書会でとりあげて、そのとき今村さんの書籍はすべて読んだと思っていたけど、この短編集を読み落としていたので読んでみました。
『こちらあみ子』はすでに記事にしました。こちらは名作です。
記事にしていないけど、『星の子』も名作だと思います。ラストシーンは秀逸です。
不条理小説として読む
一本目の短篇『白いセーター』は不条理小説に感じられました。
フィアンセの伸樹とのクリスマスディナーを楽しみにしていたわたし(ゆみ子)は、義姉(伸樹の姉)から4人の子ども達の面倒を頼まれてしまいます。
イブの日の午後、わたしは4人の子ども達をつれて教会に付きそうと、4歳の末っ子が暴れたのを押さえて泣かせてしまいます。
子ども達の面倒を引き受けたことも、子ども達がくさいホームレスを追い出そうとしているのも諫めたのも、大声をあげる末っこを押さえたのも、倫理的でわたしに落ち度はありません。
それにもかかわらず、わたしは義姉から冷遇され、伸樹とのディナーの予定もくずれ、あげくホームレスには唾を浴びせかけられます。
社会を糾弾する怒りをこめるわけでもなく、過剰に苦しみや嘆きを煽ることもなく、たんたんと描かれています。
こういった小説はテーマがあいまいに見えて、結論を明確に出すエンタメ構造ばかり読み慣れている読者には、面白味がなかったり物足りなく感じるかもしれません。
しかし、テーマは読者の方が見つけるべきものです。
作者がすべて説明してくれると思うのは幼稚な読み方です(同様に、作者の発言をすべての答えのように盲信することも幼稚です)。
何でも先生が教えてくれると思っているのは子どもの姿勢です。
世の中には、誰にも正しいと言いきれないことがたくさんあります。
物語は、簡単なことばでは言い表せないものを「もの語り」ます。
作者自身が、意識しているかしないかは問題ではありません。
作者が書こうとしたこととは、まったく別のなにかを「もの語って」しまうことがあるのです。
人間のナゾとして読む
(参考記事:人間のナゾ)
二本目の『ルルちゃん』では、初めて訪れた安田さんの家から「ルルちゃん」という人形を盗みます。
その動機はとても曖昧です。
四本目の『せとのママの誕生日』では、もっとナゾな行動が見られます。
お世話になった(?)ママの家に集まった女の子たちは、寝ているママの体にお菓子を載せていくのです。
五本目の『モグラハウスの扉』のラストで、わたしとみっこ先生は唐突に海に向かって走り出します。
これらの人々の行動が何を表しているのか?
それこそ人間のナゾです。
読者はそれぞれに「自分はこう思う」という考えをもつでしょう。理屈で解釈もできるでしょう。
また、作者は作者で描こうとしたものがあるでしょう。(【新刊インタビュー 今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』】6つの作品で書こうとしたこと)
けれど答えを出すことだけが読書の目的ではありません。
言葉にして結論づけることは、ときに、それ以外の余白を切り捨てることにもなります。
時間をおいて読み直すことに、感じ方が変わるというのは、こういった余白にあるものに対しての見方が変わるからでしょう。
読み応えのある短篇集
三本目『ひょうたんの精』と六本目の『父と私の桜尾通り商店街』については触れませんでしたが、エンタメ寄りのわかりやすい作品です。
これだけ読みやすい文体で、ことばの向こうにある何かを表現している作家はめずらしいように思います(たいしたことないものを小難しい言葉でくどくど書く作家はたくさんいるのに)。
読んだことのない方は、どれか一冊でも、今村さんの本を読んでみてはいかがでしょうか?
緋片イルカ 2020/10/8