映画『VORTEX ヴォルテックス』(視聴メモ)

公式サイト
https://synca.jp/vortex-movie/

映画館にて上映中の作品ですが、ストーリーの核心について触れている箇所がございます。ご了承の上、お読み下さい。

感想

「好き」4 「作品」4 「脚本」3

ギャスパー・ノエという監督は認知しておらず初めて見た。『愛、アムール』に似た老年夫婦の最期という題材。設定上は、妻は元医師で、認知症。夫は作家で夢と映画についての本を執筆中。20年連れ添った不倫相手がいて、心臓が悪い。息子はヘロイン中毒でクスリの売人をしている。小さな孫がいる。眠たくなるほどの長回しを使いながらも真摯に描写しているかんじは共感できるが、何よりもこの作品のウリのようになっているのが「全編、画面2分割」という演出。まるまる148分、左右の2画面構成になっている。その演出効果について以下、考える。

観客を混乱させない工夫
2画面で最初に問題になるのは左右のどっちの映像を見たらいいのかという問題。多くの人は中心視野で(焦点を合わせて)認識するので、右を見たり、左を見たりを観客が選択しなくてはならなくなる。ショットというのはそもそも、観客に「視点強制」する意味がある。演劇と比べると分かりやすい。演劇では、観客は舞台上のどこを見るか自由。そのため、観客がストーリーの重要な演技を見落とさないように演技がオーバーになったり、セリフが説明的になったり、注目を集める工夫をしたりする。映画を2画面構成にする場合、1つは右左のどちらかに注目を集めるようにするという工夫をするか、同時進行で観客に負荷をかける(より理解したいのであれば見直せばいいぐらいの)やり方がある。今作では前者を選んでおり、左右どちからの人物は、止まっていたり、繰り返し動作をしていることが多かった。まったく混乱はしなかったもの、反面、それであれば、一画面でショットを切り替えるのと、ほとんど変わらないということに気づいた。つまり左右のどちらかに注目させたいのであれば、一画面で映せばいいということ。むしろデメリットとして、画面が小さくなってしまい、人物(役者)の顔が小さく映ることになり感情移入しづらい。メリットとしては2画面の対比効果が考えられるが、これは次の項で説明する。

夫婦を2画面にする意義
今作で2画面に映されるのは主に老夫婦の夫と妻。それぞれを平等に映す意義があり、夫の側にも妻の側にも感情移入してほしいという意図があったかもしれないが、画面構成のせいでむしろ客観視してしまう印象を受けた。画面の左右、どちらに誰を置くかのルールはないようで、切り返しのタイミングで左右が入れ替わったりするし、ときどき息子視点になったり、画面内でPOVを使ったりして、そのあたりには徹底されていない印象も受けた。画面内でいえば、長回しショットが多いが、ときどきカットをしていて、その都度、シャッターのような黒味が入る。一緒に見た肩が「瞬き」みたいと言っていて、なるほどと思ったが、両眼(2画面を両眼に喩えて)同時に切り替えることはなく、片方のシャッターが入るたびに、気になって、目がそちらの画面に誘導され、なんとなく中途半端な演出に感じた。老夫婦の時間感覚と、長回しの演出は相性がいいと思うが、カットが悪目立ちしているように見えた。記憶が飛んでしまう(何かしようとして席を立ったのに忘れてしまったというような)タイミングという訳でもなく、ただ移動の省略などのカットも多かった。2画面に関係ないが、長回し(という観客にとっては怠い演出)を断行するのであれば、カットのタイミングはかなり気を遣うべきだったと感じた。長いオープニング(これはかなり怠かった)の後、2分割されていない夫婦がセットアップされ、本編からは中央に黒い線が入ることになり、これは境界線に見え、夫婦の距離感にも見える(2画面を境界線なしに並べることもできるので、意図的に入れているといえる)。手塚治虫のマンガでは、コマの枠を突き破ったりする演出があるが、この線の太さが変わることはなかったはず(微妙に変わっていたが見落としていたかもしれない)。ただ、左右の画面がパズルのように噛み合って、1画面に見えたり、枠を飛び越えるように夫の手が伸びて、妻の手に重ねるといった演出は、2画面ならでは効果があった。あとは夫がシャワーを浴びているタイミングに、同時進行で妻が夫の仕事の書類を捨ててしまうというサスペンス効果を狙っていたが、これは2画面ならではのメリットではない印象。ふつうにカットバックすれば同じ効果は得られる。夫が心臓発作で死んだ後、片側は真っ黒になる。それは妻の心の闇や空白を象徴しているようで、面白味は多いが、その状態のでシーンが長く、だんだんと邪魔になってくる感じも受けた。せっかくのスクリーンを半分で展開されるのはもったいないような印象も。枠線の幅が変化するのがなかったのと同様、黒味が増えてきて、飲まれるようにして妻も死ぬとかでもなかった。どうせ、やるならもう少し遊べたのではないかと思う。ちなみに妻が死んだときは白になり、画面の左が白、右が黒だけの映像を見せられるが、変なことをやってるなという以上の、強いメッセージは感じられなかった。白に天国や解放のような意義があるとしても、セットアップできていなかったし、そうなると夫の死は黒でいいのか?というブレにもなってしまうし……うーむ。あとは「夫と息子が同時にドアを閉める」とか「妻がクスリをトイレに長し、息子がヘロインでラリってる」などの2画面ならではのショットがあったが、大きな演出効果になっているとは思えなかった。これらも、ふつうにカットバックで同様の効果が得られると感じる。全体として、2画面が効果的と思えるシーンよりも、そうでないシーンの割合の方が多かった。そう思うと、全編を2画面にすることに拘り過ぎたのではないかと感じる。『500日のサマー』のように、的確なタイミングでのみ2画面を使えばよかったのではないかとすら思う。今作での2画面の使い方は、カットバックで同様の効果を得られることを考えると、2画面には両者の枠組みや境界線に対する演出でなければ意義が出なかったのだと気づく。

2画面でなかったとしたら?
編集し直して、一部を除いて1画面にしたとしたらと想像してみると、まず尺は120分以内に収められるだろう。客観視させる演出がない分、妻や夫、息子の苛立ちや苦しみに感情移入しやすくなる。同時にキャラクターアークが明確に浮かびあがってくるので、しっかりと人物が描けているのかというと、けっこう微妙なところもあると思う(夫が愛人に救いを求めているところは良かった)。シンプルにすればこそ、キャラの掘り下げや構成の弱さが浮き彫りになってしまうのではないか。たぶん、説明的なシーンが多いし、「妻が書類を捨てる」といったわかりやすいシーンは、クリシェに見えて、そのリアクションや回収もなかったので「バトル」としても機能していないように感じる。悪い言い方をすれば、2画面にすることでアークがないことを誤魔化したとも言えるし、逆にアークが弱いミニプロットを、効果的に演出するヒントになるとも言える。もちろん、しっかりミニプロットとしてのアークを描いた上で演出するということ(※最近書いている、演出論の記事にも関連するが、まずはしっかりと脚本を書いた上で演出をするべきで、演出ありきで脚本を書くとドラマが薄くなる)。とはいえ、148分全編を、苦労して、2画面で貫き通すという作品は他に見られないので、見てみることで、いろいろと気づかされることがあり面白い。今作のような挑戦によって、新しい演出方法が生まれてくるのだと思い、その意義は大きいと思う。

緋片イルカ 2023.12.29

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