国の政策でも、芸能人の不倫騒動でも、戦地の悲惨な現状でも、
何らかの情報が発信される。ネットやテレビで拡散される。
それに対してAだと言う人がいる。
そのAだと言った人に対して、Aではないという言う人がいる。
両者の争いを見て、むしろBではないか言い始める人がでてくる。
よくわからないまま見当違いのCを言う人がいて、またCではないと言う人、Dだと言う人がつづいていく……
沈黙して、何も語らない人もいる。
興味が無いか、情報に疎くて、無知の人もいる。
そういう人たちに、おまえはAか? Bか? それともCか? と圧力をかける人がいる。
やがて、二つか三つか、いくつかの少ないグループ収斂されて意見は単純化されていく。
グレーな曖昧さは批判され、クロかシロかの境界線が決められる。
それは国境のように隔絶し、壁のできた両者は徹底的に争ったり、断絶したりする。
物語にもクロとシロがある。
「黒い物語」はパワフルな物語である。
影響力のある誰かが、Aだという。BやCもあるが、やっぱりAこそがすばらしい生き方なんだとパワフルに主張する。
その勢いは感動的ですらあり、とくに不安を抱えていたり、自信のない人は呑まれてしまう。
国が作者であれば、プロパガンダとなる。
「白い物語」は自由の物語である。
黒い物語が世界を席巻すると息苦しさを覚える人がいる。黒に染まりきれない人が、黒ではない色、他の色、他の生き方を自由に探し求める。
白地には、赤や青や黄色といった他の色も合わせることができる。黒ですら載せられる。他の色を呑み込んでしまう黒地には乗せられない。
はじめは自由に見えた白い物語も、共感する人が増えて、同調圧力が働きだすと、色が濁って黒くなる。
「灰色の物語」は不条理の物語である。
あいまいなようで、白と黒のどちらにも染まらない。
あいまいなので、白と黒の二分思考しかできない人にはわからない。おもしろみがない。当然、流行もしない、売れもしない。
けれど、白か黒かのくり返しに疲れた人には、癒やしともなる。
安易に白か黒を正しいとは信じられない人には、新しい希望となる。
人はときに、己の力ではいかんともしがたい不条理にみまわれて、白も黒も信じられなくなることがある。
そういうときに「灰色の物語」が必要になる。
多くの人は、一時的には灰色に休息をもとめ、やがては白か黒かへ帰っていく。はっきりしない灰色は不安だからだ。
灰色の世界に留まることを決めた孤独な作者だけが、そこに残って書きつづけていればいい。
よく磨かれた灰色は、ときに白銀のように輝くだろう。
緋片イルカ 2020/04/24