「ピンッポーン」

人の幸せを願うことは自分が傷つくことに似ている。そのことを初めて知ったのは、わたしが中学2年生の時だった。

その頃、3つ上のお姉ちゃんは隣りに住んでいたミノルさんが好きだった。ミノルさんは、九州から出てきた大学1年生で一人暮らしだった。

お母さんが何かと気を揉んで、おかずの余りを――それは明らかに余らすように作られていたのだが、届けるために、わたしと姉が遣わされた。

ピンッポーン。

私はミノルさんの部屋のインターホンは、少し間延びした音がした。

「あ、これ…。」

「うれしいな。」

わたしはビニールのかかったニンジンとジャガイモの煮物を渡した。受け取ると、ミノルさんはその場でつまんで食べた。

「うん。おいしい。ありがとう。」

「あ、お母さんが作ったんですよ?」

「うん。お母さんにありがとう。それから持ってきてくれた…ウサギちゃん」

「え?」
ミノルさんは私のシャツの柄を指差した。

わたしは何度か行くうちにミノルさんと仲良くなった。わたしがいない時はお姉ちゃんが行かされたらしいが、二人ともいる時は大抵わたしが行った。

ミノルさんは工学部で、コンピューターグラフィックを描いていた。というと聞こえがいいが多くはロボットや美少女の類だった。

わたしが行くと、ミノルさんの作品を見せてくれるようになった。

「かわいい!…でも、こんな女の子描いててミノルさん彼女いないでしょ?」

「いないよ。」
それは今まで一度も、という響きがあった。

わたしはミノルさんの顔をまじまじと見た。

「何だよ?ジロジロ見て」

「うん…顔は悪くないんだよな。やっぱり中身か」

「悪かったね。いいんだよ。俺にはこの…。」

「なってあげようか?わたし。」

「本当、ありがとうね。」

それはわたしにもミノルさんにも冗談なのは明らかだった。

ピンッポーン。

「わたし、出てくる。」

姉だった。

「早く帰ってきなさいって。」

「うん。もうちょっとしたら。」

「怒ってるよお母さん。」

「は?何で?」
むしろ怒っているのはお姉ちゃんじゃん。

「いいから帰ってきなさい。」
姉は帰って行った。

怒っているはずのお母さんは、「あら、お帰り」と言った。お姉ちゃんはミノルさんが好きかもしれない、と思ったのは次の日の夜のことだった。ずっとわたしに不機嫌にしていて、わたしもその時は理由がわかっていなかったので対抗して不機嫌にしていた。

お母さんとお姉ちゃんはいなりに酢飯を詰めていた。わたしはテレビを見ながら、耳だけは二人の方へ向けていた。

「ミノル君って彼女いないのかしら?」
お母さんが言った。

「知らないよっ!」

「そう。いるならご飯作ってくれるのにね。男の子だとすぐインスタントにしちゃうから。」

「うん。」

「今どき、女がご飯作るなんて古いよ?」
わたしが口を挟んだ。

「あんたは、自分が作れないからでしょ?」

「お姉ちゃんだってできないじゃん!」

「あんたよりは出来るわよ。」

「はいはい。」
お母さんは仲裁して、いなり寿司を小皿に乗せて言った。

「どっちか、これ、ミノル君に持ってってあげて?」

「行く!」
とわたしが言うと、

「あんたはすぐ帰ってこないからダメ!」
とお姉ちゃんは言って、出て行った。

「そういうことね…。」
お母さんが言った。わたしはお母さんと目を合わせて同じことを思った。

それから、お母さんのお裾分けの頻度が増えて、わたしは持って行くのを面倒くさがるようにした。けれどお姉ちゃんは、きまってすぐに帰ってきた。

ある日、わたしはミノルさんの家に行った。

「久しぶり。最近、来なかったね。忙しかったの?」

「わたしはね、ミノルさんと遊んでばかりいるほど暇じゃないの。」

「そりゃ失礼。」

「まあ、今日は暇だから来たけど…。」

「そう。あがる?」
ミノルさんは遠慮がちに聞いた。久しぶりだからぎこちなかったのかな、とこの時は思っていた。

「え? うん。新しい彼女はできた?」

「知ってたんだ? 彼女出来たの…。」

「え? CGじゃなくて…?」

「うん。大学でサークル入ってさ。」

「そうなんだ…。」
わたしはお腹にドロドロした膿のようなものが溜まっていくような感じがした。

ミノルさんがお姉ちゃんの気持ちに気付かない振りをしているなら、ぶん殴ってやろうとわたしは思った。

「え? もしかして…俺のこと…?」

けど、ミノルさんのことだ。
本当に鈍いのだ。

「まっさか、そんな訳ないじゃん! ミノルさんみたいなオタク好きな訳ないでしょ? わたしは…。」

そんな人を好きになってくれる人が現れたんだから喜んであげなくちゃ、そう思うのだけれど…。

「そっか。今度、彼女来た時に遊びに来てよ? お姉ちゃんも呼んでみんなでゲームする?」

「…うん。お姉ちゃんは受験だから。もう来れないと思うよ。」

何かが許せなかった。

「そっか。」

ピンッポーン。

ミノルさんは玄関へ立った。わたしのお腹は膿でパンパンに張って気持ちが悪かった。

「妹、来てますか?」
お姉ちゃんの声だった。

「あ、いるよ。」

ミノルさんとお姉ちゃんが、わたしを見ていた。

わたしはどうすることも出来ないと思ったら、涙が溢れてきた。

「どうしたの?」
二人がわたしを心配した。

「どうしてミノルさん、彼女なんか作っちゃうの!」

わたしは泣きながら言って、すぐに「ああ、これじゃ、わたしがミノルさんのこと、好きみたいじゃん」と思った。

でも、お姉ちゃんの気持ちを思ったり、もうミノルさんは新しい絵を見せてくれないだろうことや、これからは母がつくる食事を持っていくこともなくなるだろうことを思うと、涙が出てきた。

ミノルさんはわたし達の家族を失い、幸せになる。それを心から喜ぶことは14歳のわたしにはできないことだった。

(了)

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