※あらすじはリンク先でご覧下さい。
※分析の都合上、結末までの内容を含みますのでご注意ください。
【ログライン】
未亡人のジャンヌは、売春をしながら息子を養っているが「ある事」をきっかけに、抑えられない衝動を感じて売春相手を殺してしまう。
※ログラインの書き方としては「ある事」というのは、不適切だが、それ自体が、この作品をどう解釈するかの問題に紐付いているため、イレギュラーな書き方とした。
【ビートシート】
PP1「プロットポイント1」:「1日目終了」
ミニプロットの映画なので、ストーリーとしてのPP1は機能していないが、青画面によるテロップが入り全体のリズムを作っているので、演出上のPP1と設定する。数値だけを見れば、全体の22%というバランスは位置として悪くはないが、42分というのは遅めであり、そこまでにリズムを作れているかが問題となり、カタリストやディベートといった基本ビートを検証していくことになる。ストーリー上のカタリストとしては機能していないが、原始的なビート(単純な変化や面白味)として機能しているのは、冒頭2分で「売春をしているということが観客に示されること」と、14分6%で「息子が帰宅すること」。この2つがストーリー上(厳密には主人公の日常範囲なので観客に設定を明かしているだけ)は効果をもっていて、位置も悪くない。演出面からみれば、主人公のジャンヌは「家事をしているだけ」とも言えるが、現実に即した長さの動作を見せられることや、ほとんど制止することなく動作していることで、観客を惹きつけるように演出されている。ショットの切り替わりも多く、家事をしているだけだが、無意味に見せているだけではないことがわかる。
MP「ミッドポイント」:「カフェでコーヒーを飲む」
後述
Fall start「フォール」:「2日目の売春」
後述
PP2(AisL)「プロットポイント2」:「2日目終了」
PP2でも同様のテロップが入るので、形式上PP1と合わせた。全体が3日間の話であり、このテロップにより三幕に分けられていると掴める。各アクトの比はおおよそ「1:2:2」となっている。厳密には以下。
1日目:42分:21%
2日目:83分:42%
3日目:75分:38%
この比率は各日を同じようなリズムで見せながらも、3日目をやや濃密に見せていると言える。作中で明確な時間は示されていないが、ざっくりと睡眠8時間、活動時間を16時間としてみる(主人公は6時に起床して22時には寝ていることになる)。活動の16時間を、朝昼夕夜という4時間×4のまとまりで置き換えてみると、1日目は「夕夜」が描かれ42分、2日目は「朝昼夕夜」と丸一日が描かれて83分。1日目と2日目の比率が1:2となる。3日目は「朝昼」を経て夕に入る辺りで終わっているので、明らかに多くなっている。1、2日目でしっかりと一定のリズムで描きながら、変調をきたした主人公の時間がズレていくのは面白い。人間が感情によって主観的な時間感覚がズレるのに似ている。
【解釈】
ログラインで補足した「ある事」について、考えていく。その前に、DVDの解説を引用しておく。アケルマンは監督の名前。
ジャンヌがなぜ最後に殺人を犯すようになったのか、という理由を映画は説明しない。だが、アケルマンの発言からはオルガズムを感じたジャンヌが自らコントロールしてきた儀式が少しずつ崩れていき、最終的にはコントロールできなかった自分の体と儀式を守ろうとして、殺人を犯してしまうという解釈が可能である。(解説 斉藤綾子)
また、上記の文章の註には以下の文章が付けられている。
アケルマンは言う。「儀式とルーティンがあったからこそ、ジャンヌはやってこれたのです。判りますか。最初は儀式が押し付けられます。でもその後は儀式のおかげでやっていけるのです。だから、オルガズムを感じてしまうことが最初の「しくじり」(actes manques)となるので。その後は「しくじり」が続いていきます。なぜなら、彼女は自分と無意識とのバリアーを守っていくほど強くなってしまったからです。(中略)そうして、ジャンヌは原因を抹消することで結果も殺せると考えたのかも知れません。でも実際は、原因は彼女自身なのです。というのも、そのことが起こるのを彼女自身が許してしまったからです。もちろん意識的ではなく、そうなると判っていたわけでもありませんが」。
この考えを踏襲するなら「オルガズムを感じること」がきっかけとなっていると言え、作中から探すと「2日目の売春」シーンとなる。部屋の中は見せられないが、それ以降のジャンヌは髪が乱れていたり(ブラシで溶かすのを忘れている)、物を落としたりといった、まさにフロイト的な「しくじり」が続く。これ以降のシーンは、1日目の儀式のように黙々と家事をこなしていたシーンと比べると、明確な「しくじり」を乱発していく(観客に間違い探しをさせているかのようにに多くの「しくじり」が描かれている)。明らかに見えない扉の向こうで「何かがあった」と想像でき、それは監督の言葉をそのまま受けるなら「オルガズム」を経験したということになる。ストーリー上のビートとして捉えるなら、部屋の中での出来事が「デス」といえ、「部屋から出てくる」ところが「PP1」となる。PP1では門や扉をくぐるといったモチーフがよく使われるが、まさに扉から出てきたところから、「しくじり」が始まる非日常(アクト2)に入ったという捉え方ができる。ビート上は日常が保たれていた最後のシーンとして「カフェでコーヒーを飲んでいる」シーンをMPとして、変化(落下)が始まる「2日目の売春」を「フォール」したが、スリーポインツだけでとるなら売春をMPと捉えても整っているといえる。
「しくじり」を続けながら2日目が終わり(PP2)、翌日には元に戻っているかと思いきや、3日目は「しくじり」は続く。3日目全体が「ビッグバトル」とも言えるが、その中でも「コートのボタンがとれていて店を探し回る」と「プレゼントが届く」というエピソードには意味があるように見える。コートはカナダに住む妹から過去にもらったもので「大きかったが、最近になって、ようやく着られるようになった」というセリフがある。プレゼントは1日目に読んでいる妹の手紙で言及されているプレゼントで「ピンクのネグリジェ」。ようやく着れるようになったコートのボタンが見つからない=着られないこと、代わりに届いたのが部屋着であるネグリジェであること。コート=外出用といえば、外に出ることが許されず、改めて室内に閉じ込められるという意味合いを感じる。ネグリジェを開封するために使ったハサミは、そのまま男を刺すために使われる。
この映画を初見では、「2日目の売春」で、何があったかが観客にはっきりと提示されてないため、「3日目の殺人」がやや唐突に見える。「3日目の売春」はシーンとして提示され、男とのセックスに嫌がっているように見える。レイプのようにも見えるが、監督の言葉に従うなら「オルガズム」からくる「不安」のようなものを感じているといえるのだろう。儀式的に生活することで無意識下に抑圧していた苦しみのようなものが「オルガズム」によって引き出されてしまったため、「しくじり」が始まり、一度、開かれてしまった「不安」を抑え込むことはできず、また作者の言葉を借りるなら「原因を抹消すること」で不安も消せると思い、衝動的に殺してしまったのかもしれない。
人によっては「オルガズム」という言葉が、ジャンヌを理解するのを邪魔するかもしれない。映像作品を受け止めるときには、監督の言葉が必ずしも正しいとは限らない。例えば監督が「この作品は〇〇がテーマだ」と明言したとしても、作品自体がそのように描かれていなければ、観客はその「テーマ」を感じることはできない。監督がどう言っていようが、全体で矛盾する箇所がない解釈であれば、監督と違った受け取り方をしても構わないといえる。
監督の「オルガズム」とは別の個人的な解釈を示しておくなら「妊娠への不安」というキーワードで、ジャンヌを理解することもできるかもしれない。MPとして置いた「カフェでコーヒーを飲む」シーンでは、飲み終わり、お金を置いたあとに、考え事をするような間が描かれている。個人的には、このシーンが印象に残った。構成上、これ以降「しくじり」が始まったとも言える(つまり、「2日目の売春」で髪が乱れたままになることも「しくじり」とするなら、映像的にはカフェですでに不安を感じていたともいえる。もちろん無意識的な不安として)。考え事をするように一点を見つめるジャンヌの視線の先に、何があったのかは提示されていない。赤ん坊や子供がいたなどという具体的な解釈をしなくとも、この時間に、ふと「妊娠する不安」を感じたとしたら、それ以降の「しくじり」も辻褄はあう。ジャンヌは戦後に裕福であることを主な理由として結婚し、息子をもうけた。夫は死んだが、今は息子のために一日家事をして、売春をして稼ぐという生活をしている。この状態が維持されている限り、儀式的な「日常」を続けていくことはできるが「妊娠」というのは、その生活を一転させるだけでなく、息子に加えて、新しい家事の負担が加わることを意味する。日常が崩れる不安としては「老い」とか「漠然とした将来への不安」という捉え方もあるが、ジャンヌが「3日目の売春」で強い拒否反応を示していることや、隣人から預かった赤ん坊をあやそうとして失敗したこと、さらに穿って解釈するならコーヒーの味に違和感を感じたことが身体的な変化を連想させたなどとすれば「妊娠への不安」というのが、しっくりくるように感じる。
あくまで、解釈は描かれている映像と矛盾しない限りは、個人の自由(※シーンと矛盾するのは解釈する人の思い込み)だが、いずれの解釈をとるにせよ、タイトルにある「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」に住む「ジャンヌ・ディエルマン」というキャラクターは、特別な人間というより、この時代、この場所に生きる平凡な一人の女性といえそうである。売春という稼ぎ方はともかく、独り身の女性が稼ぐのは大変である。その女性が、不安を押し殺すようにして、息子のために家事をする姿を、現実に近い時間をかけてシーンとして見せ、その日常が崩れていく悲劇を見せることは、この作品がフェミニズム的な作品であることと極めて一致する。
「好き」5「作品」5「脚本」3
イルカ 2025.8.28