ハラスメントの境界

※専門家ではないため、法律的な認識など間違えているところがあるかもしれません。あくまで私見です。

ハラスメントの問題の難しいところは、境界線の曖昧さだと思う。

肉体的な行為でいえば、明らかな暴力をふるわれて被害者が訴えれば犯罪行為になるが「体罰」と「指導」の境界は曖昧だ。

体育会系の組織で、コーチが暴力的行為を行っていても、選手側がそれを指導として受け止めていたら、犯罪にはなりづらく、ハラスメントなのかどうか難しく見える。

精神的な行為では、さらに曖昧になる。

例えば、会社の上司が大声で怒鳴りつけるとか差別的な行為を強要したりすれば、精神的苦痛を受けたと訴えて認定されるだろうが、部下の方にもミスや力不足で言われるだけの理由があったりした場合は「教育」や「指導」の範囲に入ってしまいがちになる。

そこで、一般に言われがちな意見として「本人の気持ち次第」というのが出てくる。

スポーツ選手でも、部下でも、言われた側が、指導や教育として受け止めているなら、それはハラスメントにならないという考え方。

だが、この考え方で見過ごされているのが組織的な圧力である。「関係性の圧力」と言ってもよいかもしれない。

スポーツ選手でいえば、そのチームに属している中で、コーチに逆らうような発言は否定しづらい。

コーチに「これは暴力か? パワハラか?」などと詰められれば、「ご指導ありがとうございます」となりかねない。

逆らうこと=チームから外れるぐらいの覚悟が必要で、だからこそ、パワーのある人間のハラスメントが許容されていく。

明確なハラスメントの加害者は、犯罪者になる可能性も高く、いずれトラブルになったり周りの人間が集団で協力することで、排除していくことはできるかもしれない。

むしろ、根強いハラスメントは中間領域に巣喰っているように思う。

学校のいじめでいえば、いじめの度が過ぎれば、発覚して警察沙汰になったり退学処分になったりするが、発覚しない程度のいじめは、なかなか解決できない。

いじめは加害者と被害者だけでなく、それを見過ごしている傍観者がいる。ハラスメントでも同様だろう。

傍観者というと、目の前にいじめがあっても「関わりたくない」と思って知らないふりをするような人が浮かぶ。

では、本当に知らなかった人はどうなるのか。例えば、クラスの男子の中で陰湿ないじめがあるが、まるっきり関わりのない女子生徒は、知りもしなかったとする。

一般的にみれば、その女子生徒には非がないし、責める人もいないだろう。

「学校のクラス」という枠組みでは、そうなるが、拡大解釈してみると違った意味合いも見えてくる。

世界のあちこちで紛争や餓死の問題が起きているが、日本に住んで知らない私には関係もないし、責められる謂れもないのか。

地球に住む人類は、いろいろなことがグローバルに繋がっているので、理屈としては無関係とはいえない。

日本人の生活スタイルが環境に影響を与えていて沈んでしまう島があって、それで人殺しと言われるには、やはり抵抗があるけど、先進国に責任を求める声も多くある。

現代人は地球から出て生きていくことはできない。学校のクラスは、転校すれば逃げることもできる。逃げる力がある人は去っていき、逃げられない人だけが残り、苦しみ続け、やがて大きな問題に発展するのだろう(あるいは絶望的に社会から無視される)。

加害者が一番悪いというのは言うまでないが、傍観者や無関心の人間は、その状態を消極的とはいえ認めていることになる。

ハラスメント構造に関わる人

権力者
何らかの決定権をもっていて、誰かに利益をもたらすこともできれば、損害を与えることもできる人。ハリウッドであったようなプロデューサーが女優にセクハラするような事例もそうだし、会社同士の関係では親会社に逆らえない下請会社とか、スクールカーストの中ではクラスの空気をコントロールすることができる上位の人間が同様の力を持つ。ハラスメントという言葉が相応しくない事例もあるだろうが力関係や、被害者が感じるストレスでは似ていると思う。権力を持っている人は、自身にハラスメントの意識がなくとも、周りの人間が追従することで、ハラスメント構造を生む。ときには「不機嫌」になるだけで、周りを思うように動かすことができる。そういった権力に心地良さを感じてしまうと危ないのかもしれないし、必要以上に自身の倫理観に厳しくあらねばいけないのではないか。権力をもっていることが問題ではなく、それを正しく使わないことが問題で、しっかりと社会を良くする方向への決定をしていけるなら、それは良き指導者(リーダー)となれるのだろう。権力の上にいるがため、ストレスを感じることが少なくなり、身体的にはストレスへの抵抗力が弱くなってしまう危険性もある。それが、ちょっとしたことへ「不機嫌」になる暴君像へと繋がっていくのではないか。

追従者
権力者の意図を積極的に汲み、追従することで、権力体制(ハラスメント構造)を維持する役割を担っている人。自分ではなく権力者の意見だという言い訳も得意とする。権力者の信頼を得やすく、利益を得ることも多い。この立場にいる人間が変わることで、構造を改革することができるだろうか? 小さな組織であれば可能だろうが、大きな組織ではすげ替えられるだけだろう。この立場の者が権力者を巧みにコントロールしている黒幕のような場合もあるかもしれないが、多くは権力者への恐怖が根本にはあるのだろう。追従をやめれば、落とされると思っているのである。「丸く収めるためだ」とか「従わないと損だ」とか、一見すると善にかなっているような理屈で、ハラスメントを強要している可能性も高い。それは追従者自身への言い訳でもあるのかもしれない。

傍観者
権力者、追従者がつくりだす構造内にいて自覚的でありながら、抵抗することをしない人。そこには「恐怖」「無関心」「思考拒否」といった心理が働いている。積極的に追従こそしないが、追従を強いられることがあれば、逆らうことはない。「みんな、耐えている」といった理屈で納得し、従わない者に対して怒りを覚えることすらある。傍観者の割合が、一定以上に達し、不満が募った場合には、反抗者となって革命的な構造改革が起こる。つまり、権力者や追従者に対して「なんで、従わなければいけないんだ?」と怒りを爆発させるのである。性質的には、争いが嫌いで、自分はもちろん、自分の周りの人間が被害を受けることを避けるために傍観しているようなところもある。個人が特定されない場であれば本心を言うが、面と向かって行動することは少ない。もしかしたら、傍観者ひとりひとりが、権力者たちに面とむかって意見を述べたら、あっさりと権力体制は崩れるのかもしれない。

被害者
一番の被害を受けている人。権力体制から逃げることができない事情があり、じっと耐えている。あるいは、長期的なストレスにより心身が不安定状態となり「逃げることはできない」と思い込んむマインドコントロール状態になってしまっている人もいるだろう。そこまで不安定な場合、第三者からは理解できない命令に従ってしまったりもする。最初にハラスメントを受けたときに逃げてしまえたり、抵抗できる人は健全なのかもしれないが、追従者や傍観者の作り出す空気にのまれて、いつのまにか被害者に陥ってしまうこともあるだろう。人間は一人で勇敢になれるほど強くない。

反抗者
追従者や傍観者の中で、強い正義感を持っている人や、追いつめられた末に抵抗に転じる被害者。いわゆるキレた人。反抗が傍観者などに広がれば、体制を変えることにつながるかもしれないが、ただ潰されて終わってしまうことも多いのだろう。また、反抗者自身がわがままであったり、ストレス耐性のないだけの、暴動者の可能性もある。この判断が難しくて、まさにハラスメントの境界。多くの人の賛同を得られるかどうかになってしまうのだろうか。

第三者
権力構造に影響を受けない位置にいる人で、いじめを知らない女子生徒のように出来事に対して「無知な人」と、知っていても関わろうとしない「無関心者」がいる。「無関心者」はやがて、自らも巻き込まれ「傍観者」となってしまう可能性もある。第三者は、権力構造の外部にいるため、冷静、客観的判断がしやすく、反抗者の手助けをすることもある。こういう人は「関与者」でも呼んでおく。

以上、この問題について、どうするべきだとか意見を述べるのは難しいが、権力構造を考えることで、自分がどこにいるかを考えるきっかけにはなるかもしれない。

とつぜん、被害者になることがあるかもしれないし、無自覚に加害者になってしまうこともあるかもしれない。

そうならないために、せめて無関心でいてはいけないとは思う。

イルカ 2024.2.27

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