「やれなかった やらなかった どっちかな」というのは相田みつをの言葉。
相田みつをはネットで擦られすぎてて、本人が書いていない偽物の言葉まで出回っていたり、言葉のなんたるかを考えてしまう部分もあるが、悪い言葉とは思わない。
特別な言葉ではないし、変にありがたがる言葉でもないとも思うが、率直に受け止めれば「たしかに」と思うものも多い。
フリーランスで働いていると「期日までに納品すること」を自分で管理して達成しなくてはならない。学生でもテスト勉強などは同じなので想像はできるはず。
そういったとき「やらなかった」のか「やれなかった」という言葉と向き合う機会が多い。
「やらなくてはいけないこと」があって、それなら「1週間以内にやろう」なんて意気込む。でも、終わらない。よくある。
予定が詰まっていて、ほとんど取り組む時間がなかったなら「やれなかった」と感じるだろう。
けど、それが本当に「やれなかった」なのか?
友達に誘われて遊びに行ってしまい時間がなかった。それで仕事が間に合わなかったは世間では通じない。言い訳にしか聞こえない。友達の誘いを断らなくてはいけなかったかもしれない。あるいは遊んだ分、どこかで寝不足になってでもこなさなければならなかったかもしれない。
けれど、友達が死にたい程に悩んでいて「今すぐ来て欲しい」と言われて、その人のために時間を使ったのなら、仕事よりも大切なものに感じられる。これは、やっぱり「やれなかった」ではないか。
スマホゲームばかりやっていて時間がなかった。これなら「やらなかった」と思う人も多い。そんなことやっていないで、やればできたはず。
でも、ゲーム自体がストレス解消のようになっていたなら、ある程度までは必要だったかもしれない。
「やれなかった」と「やらなかった」の背景には、その人自身の価値判断がある。
仕事やテスト勉強といった「やらなくてはいけないこと」を基準として、それより重要度の高い予定のせいであれば「やれなかった」し、低い予定のせいなら「やらなかった」。
1週間程度であればいい。身内の葬式があってテスト勉強をできなかった。それなら翌週、取り組めばいい。
1ヵ月も2ヵ月も進まないのであれば、それは、そもそも「やらなきゃいけないこと」が、本当は大して「やらなきゃいけない」あるいは「やりたいこと」ではないのかもしれない。
他人から見ると、そう見える。
夫婦で「家庭より仕事が大事なんでしょ?」という不満と似てる。
人間には習慣がある。無意識に生活していると、それまでの生活リズムを優先してしまう。
だから、無意識に大事なことの優先度を下げてしまっている人もいる(そういうときに失うと後悔する)。
自分が大切だと思うことに時間を割いていなかったことに気づいたとき、生活自体を変えられる人もいる。「これからは仕事を抑えて、家庭の時間を作ろう」
成長したい、変わりたいと思えば、時間の使い方を変えるしかない。
目標の大学に受かりたければ、勉強に時間を使わなくてはならない。
スポーツでもそうだし、物語創作でもそう。
今まで一本も映画を見たことないけど、いきなり脚本が書ける人など絶対にいない。
小説は自由度が高いから脚本よりも緩い。とはいえ「読むこと」だけに時間を使っていても、書かなければ絶対に作家にはなれない。
書こうと思っても書けない。これはよくある。
逃避気味に他のことばかりやっていたが、いざパソコンを開いてファイルを開いてしまえば、けっこう書けるということがある。こういうときは、自分の中での準備は十分にできていたとき。
反対にファイルを開いても、何を書いていいか一文字も浮かばないということもある。準備不足。
創作では「やらなかった」と「やれなかった」の判断がむずかしい。
書き始める前に準備するべき期間が必要なときがある。けれど、準備ばかりしていると進まない。
気合でこなせるときもあれば、気合だけでは乗り切れないときもある。
今、何をするべきか、しっかりと見定めることができると進みやすい。自分のことは判断しづらいので、周りの人の言葉で気づかされることもたくさんある。
でも、周りの優しさに甘やかされてしまうこともある。「大丈夫、俺もできていないから」と傷を舐め合うような関係。
「やらなかった」と自分を責め過ぎるのは良くないけど、サボリ過ぎてるときは「やらなかった」と反省すべき。
「やれなかった」と自分を甘やかし過ぎるのは良くないけど、頑張りすぎてるときは「やれなかった」と割り切り、次に繋げればいい。
「やれなかった」も「やらなかった」も所詮は過去で、検証は大事だけど、もっと大事なのはこれから「やる」のか「やらない」のか。
「やる」ためには、どうしたらいいか。
気合じゃない。気合は3日ぐらいはつづく。やり始めなどの勢いをつけるときには効果的。
だけど、気合だけで達成できるようなことであれば、最初から悩むようなことじゃない。放っておいても、そのうちやれる。
人間はたいてい自分が思うほど強くない。ほとんどの人が天才じゃない。
一人ではなかなか達成できないし、一人でやらなくてはいけないというルールもない。手助けてしてもらえばいい。
他人の助けを借りられないないのは、周りの人をバカにしているのか、プライドが邪魔をしているのか。
自分が思っているほど周りはバカじゃない。自分と同じように、同じ時代を、何十年も生きてきた仲間だ。
自分が思っているほど自分は才能豊かじゃない。それを認めたときに変わるものがある。
「向いてない」と気づいて、やめるのも良い。「やらない」決断ができたなら、別の道に歩み出せる。もっと自分に向いた「やりたいこと」を見つければいい。
とはいえ、最初から「向いている」ことなど、あまりない。天才じゃないから。本当の天才なら、すでに世に出てる。
向いてなくても、それでも「やる」と思うなら、新しいやり方を考えるしかない。
やれていない人は、やれてる他人に嫉妬して揚げ足をとる。そんなことに自分の時間を浪費する。気づけば揚げ足とりの名人になってるかもしれない。
それはそれでいい。揚げ足をとることが誰かの役に立つこともある。その役割を自覚していれば、それは、その人の「やりたいこと」かもしれない。
「やらなかった」のか「やれなかった」のか。
余命があと何日か、何ヶ月かしかないとして、どう考えるのだろうか。
残りの時間を何を「やる」のか。
人生も、自分が思ってるほど長くはないのだろう。
若いと自分は何でもやれると勘違いしてしまう。その若さは素敵だが、年をとると気づいてしまうことがある。
気づいて、受け入れて、それでも「やる」のであれば、いつかは何かにつながると信じたい。
イルカ 2024.3.11